本と珈琲、ときどきチョコレート

観たり、聴いたり、心が動いたり…日々の記録

本を読むこと

本を読むことが好き。

こどもの頃から時間があると何か読んでいた。

読むのは遅いし、好きな本や好きなシーンは何度もページをめくって読み返す。

だからたくさん読んでいるわけではない。

それに、すぐ内容を忘れてしまう。

すごく好き!なんだけど、どこが好きだったかすぐ忘れてしまう。

だからこうしてブログに記録しておくのは良いなぁと思う。

自分だけのノートに記録しておくのも良いけれど、

ブログにするとその本のどこが好きなのか、じっくり消化できるのがいい。

感想を記しながら、曖昧だったその本の好きなところが、輪郭をもってくるのもいい。

どこかで誰かが私の感想を読んで下さっているのも嬉しい。

他の方の感想を読めるのも楽しい。

 

本を義務感とともに読むのは大嫌い。

好きな本を自由に読みたい。

 

時間がたっぷりある休日、部屋を掃除してコーヒーを淹れて、好きな本をずっと読む。一人で読むのもいいし、向かいで作業してる夫に、「ここ面白いよ」って本の話をするのも好き。

こどもが習い事の間、短い待ち時間に読書に没頭する時間も好き。

 

でも、「読もう!」と思った本がなかなか読み進められなかったり、途中で読むのをやめてしまった時は、(私ってダメだなぁ)って思ってしまう。

特に世間で大ヒットしている本や友人のおススメの本がどうにも読み進められなかったり、たくさんの人が「いい!」って言っているのに、自分がちっとも良いと思えなかったりすると、寂しく残念な気持ちになってしまう。

 

そんな時、『誰にも相談できません』と『居場所がないのがつらいです』(髙橋源一郎/著、毎日新聞出版)を読んだ。どちらも毎日新聞の人生相談をまとめた本だ。

様々な悩みに源一郎さんが、真摯に、温かく、時に厳しく、時にユーモアを交えて回答している。

 

その中に、「どうしたら難しい本を最後まで読み通すことができるでしょうか」(『居場所がないのがつらいです』p.234)という相談がある。

その方に対して、源一郎さんは「それがどんな本だろうと、本を最後まで読み通す義務はありません」と回答している。

源一郎さんにとって〈本は人間と同じ存在〉で、

「恋人のような本は、読むたびにワクワクします。そして、もっとその本のことを知りたくなる。家族のような本は手元において時々チラっと見るだけで満足。親友のような本は、ずいぶん前に読んだきりだけど、たまに読むとやはり感動する。一度会ったきりで名前も覚えていない本は…。いや友だちに過ぎなかった本が恋人になったり、親友になったりもします。」

「わたしたちが変わることで、本との関係も変わってゆくのです。そういうわけで、会う人全員と深くつき合うなんて無理!」(『居場所がないのがつらいです』p.235)

 

あぁ!源一郎先生、名回答!!

 

 

自分はダメだなぁなんて思わずに、

おばーちゃんになっても好きな本が読めるよう、目を大切にしようと心に決めました。

 

 

…それにしても、この2冊の本、それぞれの回答が心に響きます。そして、こんな多岐にわたる相談に丁寧に答えることができる源一郎先生、そりゃモテるよなぁって思いマシタ。

 

私にとって、大切な二冊です。

『天才はあきらめた』

最近、こどもの教育に大切なのは、“GRIT(やりぬく力)”だ、とよく耳にするようになった。

『GRIT-やりぬく力-』はアメリカの心理学者アンジェラ・ダックワース氏の著書。

この本では、人生で何かを成し遂げるために大切なことについて、“情熱”と“粘り強さ”が挙げられていた。

ほんと、そうだなぁ…って思う。

そして、私が周りの人を見て思うのは、何かを成し遂げて、挑戦し続けるために大切なことは、“情熱”“粘り強さ”、そして“出会い”なのかなぁって思う。

また、自分のことや周りのことを知っている(知ろうとする)こと、何が自分にとって楽しいかわかっていることも大切なんだろうなぁって思う。

 

そんなふうに思ったのは、『天才はあきらめた』(山里亮太/著、朝日文庫)を読んだからだ。

 

この本、すごい。

こんなに赤裸々に自分の内面をさらけ出して、嫉妬やどす黒い気持ちをさらけ出して、でも、(山ちゃん好きだなぁ…)って思わずにいられない。

読みながら「山ちゃん、ひどい!」って思いながらも、なんで惹かれちゃうんだろうって思った。

 

若林さんの解説を読んで、あぁそうか…って腑に落ちた。

「日々の仕事や生活で負った傷を、彼は隠さずに見せる。恰好いいところだけじゃなく、耳を塞ぎたくなるような情けない話やみっともない姿も見せてくれる。そういう血まみれになりながら闘っている姿を、ファンの皆さんは信頼しているのだろう。そういう人間は信用される」(p.251)

 

みっともない姿を見せながら、それをみとめながら、でもそんな自分を超えようとしている。

 

そういう姿って美しいんだよなぁ。

 

嫉妬やどす黒い感情は誰にでも起こることだと思う。

 

それを隠したりみとめなかったりするのではなく、

何かを攻撃するのではなく、

「どうせ自分なんか…」と挑戦しない言い訳にせず、

前に進む燃料にしていく。

自分を超えていく力にする。

 

あ、そうか。

だから、この本はたくさんたくさん嫉妬やどす黒い感情が描かれていても、

明るい光を感じさせるのか。

 

ほんと、元相方さんやしずちゃんへの行いはよくここまで書けた…って思う。

「自己嫌悪になるほどの僕の卑しき感情たち」(p.3)がしっかりと書かれている。

 

そして、私は、山ちゃんのお母さんがとても好き。

たくさん好きなエピソードがあるけれど、

なかでも、

山ちゃんがクラスで唯一高校受験に失敗して一人で先に帰宅した時、「あんたがいたら盛り上がりづらいもんねぇ。そういう気を遣えるところ偉いねぇ」と褒めて、あとは受験のことは触れず、山ちゃんが好きなカレーライスを作りに台所に戻っていったという話がとても好き。

 

山ちゃんのお母さんは、〈信じられないところから褒め言葉をもってくる人〉だ。

山ちゃんが壁にぶつかっても、嫉妬の嵐の中でも、絶望せず、「自分はスゴイ!」って進んでいるのは、お母さんの影響があるんだろうなぁって思う。

 

私は息子の傷口を拡げてしまうことが多いので、山ちゃんのお母さんは本当に素敵だし、そんなお母さんに育てられた山ちゃんは幸せだよなぁって思う。

 

あらためて、親の役割ってこどもに「あなたは大丈夫」って言うだけで充分なんじゃないかなぁって思った。

 

山ちゃんの大切な出会いの一つ亀井さんの言葉も印象的だ。

「運もあるかもしれない。ただ、自分の道を一生懸命に走っていると、人は必ずそこに引き寄せられていくものだ」(p.147)

 

ほんとうにそう。

情熱を持って一生懸命走っていると、プレゼントのような良い出会いがある。

 

そして、走ること、続けることって辛いときもあるけれど、そこに楽しいって感情が湧くとぐっとスピードや深さが増してくる。

 

だから、置かれている状況を楽しめることってとても大切なことなんだよなぁ。

そして、自分にとって、何が楽しくて、何が楽しくないか、それをわかっておくことも大事。

 

良い本。

でも読む場所に注意です。

ワタシ、健診の静かな待合室で思わず吹き出して笑ってしまい、何度もヤバいって思いました。

マスクしてて良かった…。ニヤニヤが止まらなかったから…!

性暴力について、今、思うこと

性暴力を言葉にすることは難しい。とても力がいるし、言葉にした後とても疲弊してしまう。

言葉にした後は何度もフラッシュバックして、苦しくなる。

 

でも、時間がかかっても、できるだけ言葉にしていきたいと思う。

胸を張って伝えたいと思う。

 

命を削るように、性暴力の被害について伝えている人の言葉を聴いて、私も何かがしたい。

 

五ノ井里奈さんやカウアン・オカモトさん…。

社会に向けて発信している人たちの声に力をもらう。

 

そして、その発信を聴きながら、

性暴力は、人の尊厳を踏みにじる犯罪だと強く思う。

 

先日息子から「ジャニーズで何があったの?」と聞かれた。

 

私は今様々なところで告発されていることを伝え、

あらためて他の人に触られたり見せたりしない自分だけの大切な場所である「水着ゾーン」(プライベートゾーン)について伝え、

もしも、水着ゾーン以外でも自分の身体の大事なところを触られたり、嫌なことをされた時は堂々と「やめて」と言ったらいいし、受けた被害を私に話してねと伝えた。

 

加害をなかったことにするのは、次の被害を生むとともに、自分自身を深く傷つけてしまうことにもなるのだ。

 

(ただ、ジャニーズ事務所に関わっていた人皆が事実を話す必要があるとも思ってはいない。〈性暴力〉は本当に、その人の生存に関わるセンシティブな事柄だから。決して告発を強要する空気を作ってはならないとも思う。大切なことはまず、被害者のケアなのだから。)

 

私はこどもの頃、性被害を受ける人は“受ける人に隙があったからだ”と教えられていた。

「露出の多い服を着てはいけない」「帰宅が遅くなってはいけない」「満員電車は痴漢に合うから、空いてる電車に乗りなさい」…などと、母から常々言われていた。

 

だから小学生で性被害にあった時、私は誰にも言えなかった。

身体が強張り、苦しかった。

そして、本当に不思議な感覚だったが、一晩寝て、朝になるとその時の状況が記憶から乖離していて、現実にあったことと思えなくなった。

しかし、時々、その時の状況がフラッシュバックし、その時は、暗鬱な気持ちとともに、被害を受けた自分に落ち度があったと、自分を責めた。

 

こどもの頃の私はショートカットで、普段、ズボンを履いて、ボーイッシュだと言われていた。性的なもの、〈女らしい〉ものを遠ざけていた。そんな私が被害に合った。

 

その時私に必要だったことは、大声を出すかブザーを鳴らすか、周りの大人に知らせることだった。でもできなかった。

 

知らせても信じてもらえるだろうか、受け入れてもらえるだろうか…と思っていた。

 

声を出せること、声が正しく聴かれることって本当に大切なことだ。

 

私は今でも本当に信頼している人にしか受けた被害を話せない。

 

だから、社会に向けて発信している人にとても敬意を持っているし、自分も一歩踏み出したい思う。

 

こんな決意もすぐに揺らいでしまうから、ブログに残しておくことにした。

 

 

だいぶ前のことだが、『フラワーデモを記録する』(フラワーデモ/編、エトセトラブックス)の読書会に参加した。

フラワーデモのことは以前から知っており、私も何かできないだろうか…と思い、読書会に参加した。

参加者の方々は、本を読んで何か考えたいとか、社会を変えたいと思っている方だろうから、安全に冷静に性暴力について聴いたり話したりできるだろうとも思った。

しかし、終わって感じたのは、性暴力をテーマに話すことの難しさだった。

私にとって性暴力は、もう30年以上の前の出来事で、何人かの信頼できる友人や大学の先生にも話していたことだった。ジェンダーフェミニズム、トラウマについての本も読んできた。大学生の頃、レポートを書く作業は、自分を〈性被害〉から自由にするためのものだった。

 

読書会を通して思ったことは、私は受けた被害を客観的に見ることができていると思っていたけれど、そうではなかったということだった。

そして、やはり語ることで疲弊して傷つくんだという事実だった。

 

「それはきついですねー」とか、「加害者の心理を考えてもしょうがないですよ」という言葉に一々失望したり、言いようのない閉塞感を感じた。

 

期待してしまっていたとも思う。

 

そして、

普段しっかり怒るべき時に怒っておかないと、怒りの反射神経も鈍くなるんだと思った。

 

思い出したくないと記憶に蓋をする癖もなくしていきたい。

(自分を守るために、時には思い出さないようにすることも大切ではあるけれど。)

 

そして、その人の生存やアイデンティティに関わることを安易にテーマにすることの危険性を忘れてはならないと思う。

 

思い出すことがある。

 

卒業して何年も経った時、大学でのジェンダー論の講演に行き、その後飲み会に参加した。

その時、斜め前にいた初対面の男子学生が「僕、バイセクシャルなんです。今、本当に好きな人がいて、その人は男の人なんです」と話した。私はその話を、フワフワした気持ちで聞いていたことは覚えている。そんな私に、その学生さんは「真剣なことだから、笑わないでほしいんです」と怒った。

フワフワとたゆたっていた気持ちに急に冷水を浴びせられたような感覚がした。

笑ってなんかいないつもりだったけど、笑っていたのかもしれない。少なくとも、すごく深刻な話としてその学生さんの話を聞いていなかった。

その学生さんは「僕にとっては真剣なことなんですよ」と言って、それ以上話をしてくれなかった。

 

男の人が男の人を好きだという話はその学生さんにとってただの恋バナではなかった。

 

〈性暴力〉というテーマには、

周りの反応一つ一つがナイフのようで、命を削られるようにそこにいる私も、

セクシャルマイノリティ〉というテーマには、

フワフワ漂っている。

ナイフを突き付けられていると思っている私が、ナイフを突きつけている。無自覚に。

 

まだいろいろ考えたいこともあるけれど、今日はこの辺で終わります。

『音楽は自由にする』

『音楽は自由にする』(坂本龍一/著、新潮社)を読んだ。

 

没頭して読んでたら、息子がYMOを流してくれた。

坂本龍一の文章を読みながら、YMOを聴く!なんて贅沢で豊かな時間なんだ!

 

唯一無二の音楽家で、思想家で活動家であった坂本龍一さん。

中学生の頃、真っ暗な部屋でカセットテープが擦り切れるまで聴いた美しい旋律。

ピアノを奏でる姿とか、オーケストラを指揮する姿とか、アカデミー賞授賞式とか…とにかく全てがかっこいいなぁ…って、ウットリ憧れてた。

 

それとともに、地雷撤去活動や「非戦」の出版など、時代の問題に対して自分の立場を明確にして、アクションを起こす姿に、孤高の存在ではなく、私達とともに生きる存在なのだと励まされ、揺すぶられた。

 

(しかし、10年程前に夫から、「教授ってアホアホマンの兄やん」って動画見せられた時は、マジでショックすぎた。人って多面的…)

 

 

大きな才能を持ち、それを存分に発揮して、社会に影響を与える人は、どんな育ち方をして、どんな人と出会い、どんな生き方をしてるんだろう…と興味があり、本を手に取った。

 

(以下は坂本龍一さんのことを愛称の〈教授〉と呼びます)

 

読んで思ったことは、

才能は、幼い頃から育まれているものだということ。そしてそれは強制されて始めたり続けたりするものではないということ。

ピアノや作曲を学ぶ環境は家庭や指導者が提供したものだけれど、

それを続け、一度やめても戻ってきたということは、それが、その人の本分、才能と呼べるものなんだなぁ。

 

そして、〈教授〉が持つ社会に対するエモーションが、更にその才能を磨き、その作品が受け取る人の心の奥深く響きながら、社会に開かれたものにしているんだなぁ。

 

やむにやまれぬものを持っている人って、もうそれだけで優れた芸術家なんだと思う。

〈教授〉に限らず、どんな人でも、その人のやむにやまれぬ表現に、私はいつも心を打たれる。

 

そして、やはり、〈教授〉が亡くなるまで、そして亡くなってからも光り続けているのは、〈教授〉が問い続けてきたからなんだろうと思う。

 

 

「自分はなぜこの時代の、この日本と呼ばれる土地に生まれたのか、そこにはなんらかの意味があるのか、ないのか、単なる偶然なのか。子どものころからそんな問いが頭をかけめぐることがあるが、もちろん、明解な答えに出くわしたことはない。死ぬまでこんなことを問うのか、それとも死ぬ前にはそんな問いさえ消えていってしまうのか。」(p.248)

 

 

生きること、音楽、表現、他者、言葉、文化、芸術、社会、経済、国、環境、紛争、戦争…、〈教授〉は問い掛けながら、作品を生み出し、奏で、行動し、その時々で様々な音楽や人、本との出会いがあり、その出会いが新しい扉を開いている。

 

そうだ、問い掛けながら、音楽は〈教授〉を自由にしたんだ。

 

そして、音楽は、〈私〉、〈私たち〉を自由にする。

 

私たちは、問い掛けながら、〈自由〉になっていく。

 

 

『音楽は自由にする』、〈教授〉ファンはもちろん、表現に興味のある人ならファンでなくても、様々な分野について示唆に富む珠玉の一冊です。読みながら本が付箋でいっぱいになりました。

 

坂本龍一さん、そして素晴しいインタビュアーの鈴木正文さん、本を残して下さってありがとうございます。

 

映画「怪物」

映画「怪物」を観た。

とても良かった。

「誰も知らない」を観た日が今も忘れられないように、

「怪物」を観た今日は、忘れられない日になるだろう。

 

 

 

(以下ネタバレを含む感想です)

 

 

 

息をのむような美しいラストシーンが目に焼き付いてる。

 

物語は行きつ戻りつ、重なりつつ進んでいく。

 

「え、え?どうなっちゃうの?」「どういうこと?」「何?何?」って、観ている私はどんどん物語に巻き込まれていく。

 

怪物は、学校?世間?自分自身?

 

胸がギュっとなるようなどこか懐かしさを感じさせる映像と、

俳優の表情ひとつひとつが心に刻まれる。

 

安藤サクラさん、黒川想矢さん、田中裕子さん…すごいなぁ。

(田中裕子さんは、「いつか読書する日」でもすごく良かった。)

 

私は、息子が湊とほぼ同年代だからか、早織に感情移入して、冒頭から泣いてしまった。

早織はすごくリアルだった。

 

早織の立場で観ていた私だけれど、

物語の視点が変わると、かつて映されていた画面の中で素通りしたシーンや気に留めなかったセリフが生々しく浮き上がってくる。

 

あぁ、こんなに残酷だったんだ…と気付くし、

あぁ、こんなに美しかったんだ、と知る。

 

息子についても、先生についても、学校についても、自分が知っていることって一つの側面だけ。その一つの側面だけで、自分の中で物語ができていく。特に追い詰められたり不安な時はすごいスピードで〈私の〉物語ができていく。画面を通して、そんな様を突き付けられた。

 

良い映画だった。

 

そして、坂本龍一さんの音楽が素晴らしかった。心の深いところで広がり響く音楽。

 

 

【追記】

この映画で突き刺さった、

〈善人〉の暴力性とか、〈無自覚〉の怖さや、セクシャルマイノリティのこどもについても、ちゃんと考えたいと思う。

落ち込みの処方箋…『ご本、出しときますね?』

今日は色んなことを話し過ぎて少し落ち込んでいる。

20代の頃は、夫のことやこどものことなど、自分以外のことでしか話題がない人にはなりたくないなぁなんて思ってたのに、

今日は思いがけず夫やこどもについて話すつもりのないことまで話してしまった。

 

嘘はなるべくつきたくないけど、

話さないっていう選択をしてもいい。

 

あのとき〈なりたくない、と思っていた大人〉に私はなっていて、

あのとき〈なりたくない、と思っていた大人〉の気持ちがわかるような気がする。

 

まぁ、時は巻き戻しできないから、反省だけはちゃんとして、もう落ち込まないようにしよう。

 

疲れたり傷ついた心の回復には本がいい。

『ご本、出しときますね?』(BSジャパン若林正恭/編、株式会社ポプラ社)、楽しかったぁ。

若林さんと小説家達の鼎談集。

 

【印象に残ったところ】***

羽田圭介さんの(“「お金と仕事がない」っていう充実感の欠如と、強迫観念はまた違うのかな”という問いかけに)

若林:そうそう。仕事してる間は、自分の内側のことで悩まなくていい。それに、金銭が発生すると「社会に必要とされてる」と思えて、自分のなかの欠落感が埋まった気になる。その「必要とされてる感」を失う怖さ。今仕事がなくなったときに、その欠落とうまく付き合う技術や人間力への自信がない。そこから来る強迫観念かもしれませんね。(p.166)

 

藤沢(周):究極的に「なぜ書いているのか」というと、世界の真実というか本質、実相を書きたいわけですよ。

でもそれは言葉以前の世界ですから、言葉以前のものを言葉で書くという矛盾を引き受けますよね。ずっと詰めていって、なるべく自分のイメージに近い言葉を探して、一旦言葉にしたときには、その世界の真実に敗北しているわけです。「言葉」というクッションが入ってるから。だからせめて、書くということは、世界と刺し違えることなんじゃないかなと思いながらいつも書いています。(p.179-180)

 

若林:うちの相方は言葉に関してちょっと変なところがあるんです。たとえば猫のことを「猫」って言いたくないんですって。で、なんで?って聞いたら、直接的すぎるからって。「直接的すぎて、重たいんだ」と。だから相方は猫を「おもち」って言ってるんですよ。(略)漫才のことはお漫才って言うんですよ。(p.240)

 

若林:(略)「全部、あなたの為よ」とされると…怒りが湧いてきちゃう。人間は結局自分の為に、合理的な行動をとってるんだよ!って。(p.248)

 

西(加奈子):ズルはしたらずっと苦しいから。ズルをしないで苦しむほうが楽しい。(p.285)

***

 

小説を読んでいて、

時にナイフのような言葉が、世界を切り裂いてまったく新しい景色を見せてくれる時がある。

作家がまっすぐに世界に向き合って、新しい地平に辿り着いている物語に出会える時がある。

だから読書が好き。

 

この鼎談であらためて、言葉というものの不思議さや限界にも気づかされた。

だからこそ、もどかしさや切なさややりきれなさを言葉に置き換えて表現する作家達、そして、言葉に置き換えられない何かを音楽や絵や色々な手段で表現している芸術家達に、救われる時がある。

 

資本主義社会での価値とは別のところに、芸術の価値があるし、それは、きっと一部の限られた人だけのものではないはずだ。

 

(本の内容からとても飛躍してしまったけれど、私の中では繋がっているのです)

好きだ!

ドラマ「だが、情熱はある」が今日最終回(/_;)

うわぁーん!寂しいよぉ!悲しいよぉ!

もともと小6の息子が熱心に観ていたこのドラマ、気づけば私がどハマりしてた。

 

このドラマ、好き!

 

色んなシーンが刺さるんです。

 

嫉妬とか劣等感とか惨めさとか恥ずかしさとか全部ひっさげながらもがいてく感じがいいよ。いい!

 

ということで、

『社会人大学人見知り学部卒業見込み』(若林正恭/著、メディアファクトリー)を読みました♡

おもしろかったぁ。

今の今まで、若林さんのこと「春日じゃない方」って思っててゴメンナサイ!

と、いうか、オードリーって、すごく良いコンビですね。バランスが、いい!

このエッセイは10年前に出版されたものなので、最近のものを読むと印象も変わるのかな?読んでみたい!

 

どの章もいいんだけど、とりわけ、「選択する」、「ネガティブモンスター」、「落語」と「春日」が良かったなぁ。

 

「ぼくは、全てを見せなくてもその人との関係をより良いものであろうとすることそのものが愛情の一つなんじゃないかと考える」(「選択する」p.93)

平野啓一郎さんの『ドーン』も読んでみたいな。

 

「考えすぎて良いことと悪いことがある。ぼくの場合は考え過ぎて悪い方向に行っている。ということだろう。

みんなはなんで考え過ぎないで済むんだろう?どうすれば考え過ぎなくなれるのか?と、今度は考え過ぎない方法を考え過ぎていた」(「ネガティブモンスター」p.135)

 …あぁぁ、わかる!

 

「自己の確認なんかじゃなかった。共感の確認なんだ。

笑い声が聞こえる時、人と人は通じ合っている」(「落語」p.184)

…この章の読後は心臓がバクバクした。

 

「春日は『どうしても幸せなんですけど、やっぱり不幸じゃないと努力ってできないんですかね?』と真剣に言ってきた」(「春日」p.204)

「本当にずっと不思議だった。全然ウケないし、負けまくっているのに、なんでこんなに幸せそうだなんだろう」(「春日」p.206)

 …オードリー、良いなぁぁ(…これしか言えない、私の語彙力が残念だ)

 

あと、やっぱりとても良かったのは、最終章「社会人大学卒業論文。例えば書き。」

 

「小学六年生の頃、勉強をする理由を、困難やアイデアを出す時に考える力とパターンを養うため、幸せになるために考える力をつけるため、と説明を受けていたら、本当にそのまま道を進んだかもしれない。」(p.216)

 

「これからも、結果は出たり出なかったりするだろう。だけど、自分にできることは常に過程を紡ぐことだけだ。そう。社会なんて自己ベストを更新していくだけでいいという自信さえあれば自由に参加していい場所だったんだ」(p.219)

 

私も最近はプロセスを楽しもうって思ってる。

このブログも自分自身が書き留めることを楽しめる限り続けていこう。

 

いいエッセイだったなぁ。

今夜のドラマも楽しみ!