本と珈琲、ときどきチョコレート

観たり、聴いたり、心が動いたり…日々の記録

〈ほんとうの自分〉?

「本当の自分」という言葉にずっとモヤモヤしていた。

「本当の自分」だけじゃなく、「私らしさ」という表現にも、

モヤモヤ…というか、苦手だった。

 

昔、送別の言葉で、

「明日葉さんらしく自分の道を進んでください」

と言われた時は、

「どうすれば?!」と頭の中が混乱した。

 

モヤモヤするなんて言いながら、

壁にぶつかると

「こんなの本当の私じゃない!」と心の中で叫ぶこともある。

 

私にとって〈本当の自分〉は自分と向き合わない時の言い訳だったり、

 “いま・ここ”の自分とは別に、すごく素敵な何かがあるはずだと思う時の免罪符だった。

 

 

『私とは何か 「個人」から「分人」へ』(平野啓一郎/著、講談社現代新書)を読んだ。

 

“たった一つの「本当の自分」など存在しない。(略)対人関係ごとに見せる複数の顔が、すべて「本当の自分」である(p.6)”

 

この一文で、この本に一気に引き込まれた。

 

少し長いけど引用します。

 

“分人とは、対人関係ごとの様々な自分のことである。恋人との分人、両親との分人、職場での分人、趣味の仲間との分人、…それらは必ずしも同じではない。

分人は、相手との反復的なコミュニケーションを通じて、自分の中に形成されてゆく、パターンとしての人格である。(略)

一人の人間は、複数の分人ネットワークであり、そこには「本当の自分」という中心はない。(p.7)”

 

ある一日を思い返してみる。

家族といる自分、職場でミーティングする自分、推しについて友人にLINEする自分、社会問題について恩師にメールする自分、マンションのエレベーターで隣人と天気の話をする自分、本を読む自分、ブログを書いている自分…全然違う。

それは〈自分〉を意図的に偽っているわけではなく、相手との関係や状況によって振舞いが変化しているのだ。

 

いろんな人にいろんなことを言われる「真面目だね」「適当だね(なぜかその後「やっぱりO型だね!」と続く)」「几帳面だね(なぜかその後「A型だと思ってた!」と続く)「天然だね」「繊細だね」「マイペースだね」「なんでもよく知ってるね」「こんなことも知らないの?」「ザ・関西人って感じ」「大阪っぽくない」「熱いな!」「結構ドライよね」「勉強熱心!」「いつもゴロゴロしてるなー」etc.…

 

それぞれの自分の振舞いについての反応が意外だったり、不本意だったり、嬉しかったり、時には想定外の反応に心乱されたり振り回されたり、逆に過剰に適応しようとしてしまう。

 

時には「わかってもらえた!」と思って救われたり、「わかる、わかる!」と共感したり、「わからないけど面白い」とワクワクしたり。

 

時には、相手のイメージに合わせようと苦しんだり、相手に受け入れられず悲しんだり、誤解されたと思って腹が立ったり。

 

この本を読んで気づいた。

こんなふうに苦しい時は、「〈本当の自分〉がいる」「〈本当の自分〉をわかってほしい」と、〈本当の自分〉と世間や目の前の相手とのズレの狭間でもがいてるんだ。

 

たったひとつの〈本当の自分〉なんてない。

それぞれの対人関係、それぞれの状況、それぞれが〈本当の自分〉で、自分の中に共存していると思うと、〈本当の自分〉という虚構に振り回されずにいられる。

 

これからは、

対人関係ごとのキャラクターである分人を肯定し、自分が好きな分人でいられる関係を大切にして、その比率を自分の中で大きくしていきたいな…と思う。

 

10年以上に書かれた本だけど、もっと早く読んでおきたかったなぁ、分人という考え方を知ると、心が軽くなるし、様々な問題を切り離して対応できるなぁと思って読んだ。

(でも、きっと今このタイミングで読むべき本だったんだろう)

 

中でも心に留まったのは、第4章の「愛すること・死ぬこと」だ。

 

“持続する関係とは、相互の献身の応酬ではなく、相手のお陰で、それぞれが、自分自身に感じる何か特別な居心地の良さなのではないだろうか?(p.135)”

 

“愛とは、相手の存在が、あなた自身を愛させてくれることだ。そして同時に、あなたの存在によって、相手が自らを愛せるようになることだ。(p.138)”

 

最近、「愛ってなんだろう」と思うことがあり、ハッとさせられる文章だった。

 

私は夫いる時の自分が好きだ。

なんというか、自由でいられるから…。

 

夫はどうだろう…。

彼もそうであってくれたらいいけれど…。

 

 

(愛については、また、いつかあらためて考えてみよう…)

 

 

「分人」という考えは本を読んでスッと頭に入ってきたけれど、

咀嚼しながらひっかかるところもある。

 

「分人」はすべて「本当の自分」ということは共感できるんだけど、

でも、それぞれの「分人」に共通するもの、譲れないものがやっぱりあるように思うんだよな。

 

例えば、私は、どんな時も「なるべく嘘はつきたくないな」と思っている。そして「できるだけ公平でありたい」と思っている。

そんな思いが大きく前に出ることもあれば、ほんのわずかしか顔を出さないこともあるけれど。

 

このあたりはどうなんだろう。

 

自分の行動を貫く価値観については、著者の平野さんはどう考えているんだろう。

もしかしたら、そんな価値観さえも、他者とのコミュニケーションの中で変化したり、揺らぐものなのかもしれないけれど。

また、他の著書も読んでみたいな。

 

読み終えて、この本を読むきっかけとなったオードリー若林さんのエッセイをめくってみた。

 

“(略)全てのディヴ(分人)に一貫しているものがなければ自分を見失ってしまうということもあるだろう。それは性格がいいとかそんなレベルではなく、人や環境に対しての確信的な愛とか哲学なんだろうな。

ちなみに『ドーン』の中で、夫婦の間柄で全てのディヴ(分人)を見せるかどうか?というやりとりがある。ぼくは、全てを見せなくてもその人との関係をより良いものであろうとすることそのものが愛情の一つなんじゃないかと考える。

だからぼくも様々な現場でより良くあろうではないか」(若林正恭『社会人大学人見知り学部卒業見込み』角川書店p.93)”

 

「全てを見せなくてもその人との関係をより良いものであろうとすることそのものが愛情」…かぁ。

 

 

人生の折り返し時点にきて、今やこれからのことを振り返りながら考える機会が増えている。

自分が心地よい分人や関係ってなんだろう。

育てていきたい分人や関係は何だろう。

自分の中にある分人に一貫しているものはなんだろう。

私にとって愛とは何だろう。