本と珈琲、ときどきチョコレート

観たり、聴いたり、心が動いたり…日々の記録

世界は色であふれてる!

森絵都さんの『カラフル』(文春文庫)を読んだ。

ふわぁー…!心地良い読後感…!

最近黒く腐りかけてたわたしの世界に、カラフルな光が射しこんだよ。

 

(以下ネタバレを含む感じたことです)

 

 

この本に流れる空気、だいすきな大島弓子さんの作品世界に重なって、心地いい。

真もプラプラも小林家の人々も、唱子もひろかも早乙女君も先生も、私の脳内では大島先生風のキャラクターになって動いてた。

(あーっ!今無性に『バナナブレッドのプディング』が読みたくなってきたーっ!読も。)

 

最後は「やっぱりそうかぁ!」「あー、良かった」ってなんだかホッとした。

 

森絵都さんの『みかづき』がとても良くて、この本も読んでみたいなと、『カラフル』の表紙に惹かれて手に取った。

ひとつひとつの言葉がとても心に沁みる。

(息子が床屋で散髪している間に読んでいたんだけど、思わず涙ぐんでしまって困った)

 

そして、文章のリズムが読んでいる私の鼓動とシンクロしてくる感じが心地いい。

 

“ぼくのなかにあった小林家のイメージが少しずつ色合いを変えていく。

それは、黒だと思っていたものが白だった、なんて単純なことではなく、たった一色だと思っていたものがよく見るとじつにいろんな色を秘めていた、という感じに近いかもしれない。

黒もあれば白もある。

赤も青も黄色もある。

明るい色も暗い色も。

きれいな色もみにくい色も。

角度次第ではどんな色だって見えてくる。(p.178)”

 

“「みんなそうだよ。いろんな絵の具を持ってるんだ、きれいな色も、汚い色も」

(略)

人は自分でも気づかないところで、だれかを救ったり苦しめたりしている。

この世があまりにもカラフルだから、ぼくらはいつも迷ってる。

どれがほんとの色だかわからなくて。

どれが自分の色だかわからなくて。(p.186)”

 

“この大変な世界では、きっとだれもが同等に、傷ものなんだ。(p.228)”

 

“そう、ぼくはあの世界にいなければならない…。

(略)

ときには目のくらむほどのカラフルなあの世界。

あの極彩色の渦にもどろう。

あそこでみんなといっしょに色まみれになって生きていこう。

たとえそれがなんのためだかわからなくてもー。(p.246)”

 

 

私が真や唱子やひろかの年、14、5歳くらいは、眩しく射しこむ色が整理できなくて、2色に分けてなんとか呼吸していた時もあった。

「私は○○色です」って表現したり説明しないとここにいてはいけないような気持ちになったこともあった。

そして、この混沌とした色が混ざり合った世界が、10年、20年…経てば、きれいに色分けされて、呼吸しやすくなるし歩きやすくなるはずだって思ってた。

大人はみんな器用にスイスイ生きてるように見えたから。

 

ものすごい勢いで時が過ぎて、

やっぱり混沌の海の中で溺れそうになる時もある。

逆に、自分の中に絵の具が全然無いように思えて焦燥感に押しつぶされそうになる時もある。

全くきれいに色分けされてなんかいないんだ。

 

真のお母さんが自分のことを「欲深い」「執念深い」と表現していたけれど、すごく共感した。

 

これからだって、オバーチャンになっても、

思わぬ色に戸惑ったり、混乱することがあるだろう。

今はこの色で行くって強く筆を走らせる時もあるだろう。

いろんな色を混ぜ合わせながら、フワフワと漂うこともあるだろう。

 

ひとつわかっていることは、

たとえ美しくなくても、汚れていても、

カラフルな世界を生きていくってことだ。

 

そして、それは、なかなかすてきなことだと思う。

〈ほんとうの自分〉?

「本当の自分」という言葉にずっとモヤモヤしていた。

「本当の自分」だけじゃなく、「私らしさ」という表現にも、

モヤモヤ…というか、苦手だった。

 

昔、送別の言葉で、

「明日葉さんらしく自分の道を進んでください」

と言われた時は、

「どうすれば?!」と頭の中が混乱した。

 

モヤモヤするなんて言いながら、

壁にぶつかると

「こんなの本当の私じゃない!」と心の中で叫ぶこともある。

 

私にとって〈本当の自分〉は自分と向き合わない時の言い訳だったり、

 “いま・ここ”の自分とは別に、すごく素敵な何かがあるはずだと思う時の免罪符だった。

 

 

『私とは何か 「個人」から「分人」へ』(平野啓一郎/著、講談社現代新書)を読んだ。

 

“たった一つの「本当の自分」など存在しない。(略)対人関係ごとに見せる複数の顔が、すべて「本当の自分」である(p.6)”

 

この一文で、この本に一気に引き込まれた。

 

少し長いけど引用します。

 

“分人とは、対人関係ごとの様々な自分のことである。恋人との分人、両親との分人、職場での分人、趣味の仲間との分人、…それらは必ずしも同じではない。

分人は、相手との反復的なコミュニケーションを通じて、自分の中に形成されてゆく、パターンとしての人格である。(略)

一人の人間は、複数の分人ネットワークであり、そこには「本当の自分」という中心はない。(p.7)”

 

ある一日を思い返してみる。

家族といる自分、職場でミーティングする自分、推しについて友人にLINEする自分、社会問題について恩師にメールする自分、マンションのエレベーターで隣人と天気の話をする自分、本を読む自分、ブログを書いている自分…全然違う。

それは〈自分〉を意図的に偽っているわけではなく、相手との関係や状況によって振舞いが変化しているのだ。

 

いろんな人にいろんなことを言われる「真面目だね」「適当だね(なぜかその後「やっぱりO型だね!」と続く)」「几帳面だね(なぜかその後「A型だと思ってた!」と続く)「天然だね」「繊細だね」「マイペースだね」「なんでもよく知ってるね」「こんなことも知らないの?」「ザ・関西人って感じ」「大阪っぽくない」「熱いな!」「結構ドライよね」「勉強熱心!」「いつもゴロゴロしてるなー」etc.…

 

それぞれの自分の振舞いについての反応が意外だったり、不本意だったり、嬉しかったり、時には想定外の反応に心乱されたり振り回されたり、逆に過剰に適応しようとしてしまう。

 

時には「わかってもらえた!」と思って救われたり、「わかる、わかる!」と共感したり、「わからないけど面白い」とワクワクしたり。

 

時には、相手のイメージに合わせようと苦しんだり、相手に受け入れられず悲しんだり、誤解されたと思って腹が立ったり。

 

この本を読んで気づいた。

こんなふうに苦しい時は、「〈本当の自分〉がいる」「〈本当の自分〉をわかってほしい」と、〈本当の自分〉と世間や目の前の相手とのズレの狭間でもがいてるんだ。

 

たったひとつの〈本当の自分〉なんてない。

それぞれの対人関係、それぞれの状況、それぞれが〈本当の自分〉で、自分の中に共存していると思うと、〈本当の自分〉という虚構に振り回されずにいられる。

 

これからは、

対人関係ごとのキャラクターである分人を肯定し、自分が好きな分人でいられる関係を大切にして、その比率を自分の中で大きくしていきたいな…と思う。

 

10年以上に書かれた本だけど、もっと早く読んでおきたかったなぁ、分人という考え方を知ると、心が軽くなるし、様々な問題を切り離して対応できるなぁと思って読んだ。

(でも、きっと今このタイミングで読むべき本だったんだろう)

 

中でも心に留まったのは、第4章の「愛すること・死ぬこと」だ。

 

“持続する関係とは、相互の献身の応酬ではなく、相手のお陰で、それぞれが、自分自身に感じる何か特別な居心地の良さなのではないだろうか?(p.135)”

 

“愛とは、相手の存在が、あなた自身を愛させてくれることだ。そして同時に、あなたの存在によって、相手が自らを愛せるようになることだ。(p.138)”

 

最近、「愛ってなんだろう」と思うことがあり、ハッとさせられる文章だった。

 

私は夫いる時の自分が好きだ。

なんというか、自由でいられるから…。

 

夫はどうだろう…。

彼もそうであってくれたらいいけれど…。

 

 

(愛については、また、いつかあらためて考えてみよう…)

 

 

「分人」という考えは本を読んでスッと頭に入ってきたけれど、

咀嚼しながらひっかかるところもある。

 

「分人」はすべて「本当の自分」ということは共感できるんだけど、

でも、それぞれの「分人」に共通するもの、譲れないものがやっぱりあるように思うんだよな。

 

例えば、私は、どんな時も「なるべく嘘はつきたくないな」と思っている。そして「できるだけ公平でありたい」と思っている。

そんな思いが大きく前に出ることもあれば、ほんのわずかしか顔を出さないこともあるけれど。

 

このあたりはどうなんだろう。

 

自分の行動を貫く価値観については、著者の平野さんはどう考えているんだろう。

もしかしたら、そんな価値観さえも、他者とのコミュニケーションの中で変化したり、揺らぐものなのかもしれないけれど。

また、他の著書も読んでみたいな。

 

読み終えて、この本を読むきっかけとなったオードリー若林さんのエッセイをめくってみた。

 

“(略)全てのディヴ(分人)に一貫しているものがなければ自分を見失ってしまうということもあるだろう。それは性格がいいとかそんなレベルではなく、人や環境に対しての確信的な愛とか哲学なんだろうな。

ちなみに『ドーン』の中で、夫婦の間柄で全てのディヴ(分人)を見せるかどうか?というやりとりがある。ぼくは、全てを見せなくてもその人との関係をより良いものであろうとすることそのものが愛情の一つなんじゃないかと考える。

だからぼくも様々な現場でより良くあろうではないか」(若林正恭『社会人大学人見知り学部卒業見込み』角川書店p.93)”

 

「全てを見せなくてもその人との関係をより良いものであろうとすることそのものが愛情」…かぁ。

 

 

人生の折り返し時点にきて、今やこれからのことを振り返りながら考える機会が増えている。

自分が心地よい分人や関係ってなんだろう。

育てていきたい分人や関係は何だろう。

自分の中にある分人に一貫しているものはなんだろう。

私にとって愛とは何だろう。

“君たちはどう生きるか”

ついに観てきた!

君たちはどう生きるか

 

(以下本と映画のネタバレを含む感想です)

 

 

吉野源三郎さんの本『君たちはどう生きるか』を3年前に読んだ時、この本が1937年に書かれたということに驚いた。

この本に描かれたコペル君の悩みや苦しみ、成長や友だちとの交流、叔父さんからの手紙は現代を生きる私にとっても、新しく瑞々しく発見に満ちている。

 

本を読み終えた時、「息子が大きくなったら読んでほしい」と私は思った。

(私に娘がいても、同じように思っただろう)

 

なぜなら、この本は、人が世界の不思議に出会った時、悲しみや辛さ、苦しみに出会った時、自分を見つめる時、力になってくれる一冊だと思うから。

 

宮崎駿監督の映画化、ずっと観たかった。

観たい、観たいと思い続けて、晩秋になった。

 

映画館で観ることができて良かった。

 

驚いたのは、映画は原作とは全く別の話だったことだ。

吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』の映画化ではなく、

宮崎駿版「君たちはどう生きるか」だった!

 

原作と全く違って最初戸惑ったけれど、

まぁ、それはいいのだ。

 

今も映画の渦の中にいる感じだ。

 

映画ってすごいなぁ。

宮崎監督が、あの本を読むと、こんな世界が創りあがるんだなぁ。

圧倒された。

 

画の力、躍動するキャラクターたちはもちろん、

宮崎監督の、今・この世界で生きていくことを肯定していく力に圧倒された。

醜さや過ち、嘘、強い者が弱い者を見下し、死の悲しみや多くの人の犠牲の上にある富や豊かさ…。

この世界のグロテスクさが生々しく、時に静かに描かれ、浮き彫りにされる。

 

マヒトが自分の嘘を告白し、〈この世界〉と違う場所で世界を作るのではなく、〈この世界〉で生きていく、友だちと生きていくことを選んだ時に、

宮崎監督、この映画を作ってくれてありがとうって思った。

 

もののけ姫」は勧善懲悪でない世界を、「風立ちぬ」では善人の無自覚な残酷さを描いた宮崎監督。

監督の作品は、人の醜さや割り切れなさを描きながら、人が生きていくこと、世界が続いていくことを肯定し続けてくれる。

実際、監督が世界を肯定的に捉えているかはわからないけれど、

私は作品からそう感じている。

 

良い映画でした。

 

でも湧きあがったモヤモヤもあって…!

 

宮崎映画の描く〈母性的〉ヒロインにモヤモヤするんだよなぁ…。

ナウシカやサツキ…、今回はヒミとナツコさんはずばりお母さんだし。

なんだろう、このドロッとモヤっとした感情…。

 

あと、これはあらためて思ったことだけど、

宮崎監督って、ほんとに空を飛ぶもの、鳥や飛行機が好きなのね!!

好きが溢れてるよ!!

 

他にもいろいろ感想が渦巻いてるけど。

今はここまで。

 

この映画、いろんな人が感想をブログや動画でアップしていて、

観る前にそれを読んだり、観たりしないように耐えるのが大変だった!

 

これから、皆さんの感想も読むぞー。わくわく。

ぼけとズレとケア

ぼけた人がその人のままで生きていく社会ってどんな社会だろう。

この問いがいつも胸の片隅にある。

 

『ぼけと利他』(伊藤亜紗・村瀨孝生/著、ミシマ社)を読んだ。

 

この本は、美学者の伊藤亜紗さんと「宅老所よりあい」代表の村瀨孝生さんの往復書簡だ。

この本にひかれたのは、伊藤さんの「はじめに」の文章を読んだ時だ。

 

“(略)「ぼけ」という言葉について。一般には「認知症」と呼ばれることが多い現象ですが、加齢とともに現れる自然な変化であるかぎり、病気ではない、と村瀨さんは言います。(略)本書では、「病気ではない、正常なこと」というニュアンスを込めて、「認知症」ではなく「ぼけ」という言葉を使っています”(p.5)

 

 

どうして静かに座っていてくれないんだろう、

どうして何度も同じことを言うんだろう、

どうして着替えを入れたバケツに排泄するんだろう、

どうして…

そんな問いかけの中で漂うこの答えにモヤモヤしてしまう。

「あの人、認知症だから」

 

まるで(住む世界が違うから)と言うように、「認知症だから」という答えで問いかけが終わってしまう。

 

「あの人、認知症だから」という答えは、今目の前にいる豊かな世界を持った人を、〈認知症〉とラベルの付いた箱に入れて片付けてしまうような、分かった気になってしまうような、そんな「乱暴さ」がある。

 

村瀨さんの記す〈ぼけ〉は、多様で豊かだ。今生きている人がそこにいて、周囲と影響し合っている。ケアされている人がケアしている。ケアしている人がケアされている。互いが互いをケアしている。そんな関係が見えてくる。

 

読んでいて、「あ、いいな」「わかる…」「なるほど」と思ったのは、この箇所。

 

“そもそもお年寄り、特にぼけを抱えた人はアナーキーな存在かもしれません。加齢によって時間と空間の見当が覚束なくなる。言葉を失い始め、記憶がおぼろげになる。そこには、概念から外れていく面があります。これまで縛られていた規範やルールからの解放とも言えるでしょう(当事者はそのことによってまた苦しむのですが…ここでは触れません)。概念から社会をとらえるのではなく、生身の実感から世界をとらえるようになると感じます。” (p.29)

 

“本来、私たちは概念によって共通の認識を得ることができていると思います。では、ぼけを抱えた人たちの世界では概念に依ることなく共同性や相互扶助のようなものが生まれるのだろうかという謎が出てきますよね。

結論めいたことを言えば、八十年、九十年かけて育んできた自分らしさをいかんなく発揮して、ズレまくりながら調和している感じなんです。その様子はある意味、相互扶助的に見えます”(p.30)

 

〈ズレながら調和する〉

 

おおぉ…!なんて素敵なワードなんだ。

 

そして、この言葉も。

長くなるけれど引用します。

“習慣はひとつの記憶だと思うことがあります。手間ひまかけてつくる記憶です。繰り返し、繰り返されることでつくられる習慣が体に記憶を生じさせ、日常をオートマチックにサポートしてくれます。それは、体に「わたし」が乗っ取られつつ、「わたし」が体に執着していくきっかけにもなる。

繰り返されてきた行為の蓄積は「わたしらしさ」をつくる。蓄積された時間のどこを切っても「そのときのわたし」がいて、体の中には「すべての世代のわたし」がイキイキと生きている。年輪のように。

(略)

僕たちは社会の求めや生理が変容するたびに、これまでの習慣に新しい行為を「熟れ」させながら「わたし」をバージョンアップしているように思います。お婆さんは変容する「体」と「わたし」に対して途方に暮れていたのではないか。デパ地下で楽しんでいたかつての「わたし」に会いに行き、今の「わたし」をケアしていたのかな”(p.60)

 

〈かつての「わたし」に会いに行き、今の「わたし」をケアする〉

 

あぁ、わかる…。

 

私は月2回ほど、職場で「回想法」のグループ活動をしていて、その時間がとても好きだ(「回想法」というと大げさで特別な感じだから、「おはなし会」という表現がぴったりするし、実際、「おはなしの会」と呼んでいる)。話すこと、聞くことが好きな方と少人数でテーマを決めて、映像や写真を見たり、音楽を聞いて色々な思い出話をする。私は準備した映像や写真を見て頂いたり、音楽を流したり、質問をしながら、ずっと皆さんの話を聞いている。皆さんが、あんなこともあったね、こんなこともあったねと互いに話したり、年下である私に、時には使命感を持って昔の出来事を伝えてくれる、そんな時間がとても好きだ。

 

普段ケアされている人がその役割から離れて、他の人のケアをする。「こんなんで生きててもしょうがないわ。早くお迎えきてほしいわ」が口癖の人が、自分自身を確認するように語る。その空間がとても好きだ。

 

ケアってなんだろう。

 

効率や生産性ではないところにある何か…。

 

グルグルグル・・・

 

 

今日はここまでにします。

ひとりで考えるエネルギーが切れてきました。

 

読み終えたら、本が付箋だらけでした。

たくさん、たくさん気づきのある良い本でした。

 

共にぼーっとする時間、抗い、看取りや認知度検査のこと、〈妄想〉や〈徘徊〉のとらえ方、“当事者が直面しているのは、「正」「誤」でも「正常」「異常」でもない、「わたし」が生き生きと感じていることなのです”(p.195)、“僕には病理とは違う文脈で老いを手づかみしたい衝動があります” (p.259)、“ケアしてもらうとは体をあげること、ケアするとは体をうけとることなのではないか”(p.263)

などなど…

 

読みながら、ハッとした。

 

 

もっと深めて考えてみたい。少しずつ。

私が私を造るということ

①『サルトル全集 第一三巻 実存主義とは何か―実存主義ヒューマニズムである―』(伊吹武彦/訳、人文書院

②『サルトル 実存主義とは何か―希望と自由の哲学―』(海老坂武/著、NHK出版)

 

を読んだ。

 

まず①を読みはじめてすぐに「???」となり、②を付箋貼りながら読み、「なるほど!」と思ったものの、振り返ると「??????」となり、

NHKオンデマンドで「100分de名著 サルトル実存主義とは何か』」をメモを取りながら観て、「おもしろい!!」と思い、

また、②を読み直し、「そういうことか!!」と思い、

最後に①を目を皿のようにして読み、「実存主義」が胸にズシンと落ちてきた。

 

読んで良かった。

知って良かった。

 

映像の力を借りて、解説の本を読んで、行きつ戻りつ本の旅をする。

それは一人きりのリビングでのとてもエキサイティングな時間だ。

一人きりなんだけど、一人きりではない感じ。この感覚はなんだ?

 

海老坂武先生は、サルトルを「対話者」と表現している。

“「自分とは何か」「他人とは何か」「社会にいかにかかわるべきか」等々、誰でも立ち止まって自分の人生について考えるときがあるはずです。そんなときサルトルという人は、確実に私たちの「対話者」になってくれる”(『サルトル 実存主義とは何か―希望と自由の哲学―』(以下②と記します)(p.9)

 

そうだ。

本を読みながら、サルトルと対話しているから、一人きりの時間がとても豊かな時間になるんだ。

 

 

サルトル全集 第一三巻 実存主義とは何か―実存主義ヒューマニズムである―』(以下①と記します)から、「これは!」と思った箇所を抜き出してみる。※下線は私が引いています。

 

*******

“「実存は本質に先立つ」(略)「主体性から出発せねばならぬ」”(①p.15)

 

人間はまず先に実存し、世界内で出会われ、世界内に不意に姿をあらわし、そのあとで定義される(略)。人間は最初は何者でもないからである。人間は後になってはじめて人間になるのであり、人間はみずからが造ったところのものになる”(①p.19)

 

“人間はまず、未来にむかってみずからを投げるものであり、(略)まず第一に、主体的にみずからを生きる投企なのである。この投企に先立っては何物も存在しない”(①p.20)

 

“実存が本質に先立つものとすれば、人間はみずからあるところのものに対して責任がある”(①p.21)

 

“人間は自由である。人間は自由そのものである。(略)われわれは逃げ口上もなく孤独である。そのことを私は自由の刑に処せられていると表現したい。(略)実存主義者は、人間は何の拠りどころもなく何の助けもなく、刻々に人間を造り出すという刑罰に処せられている”(①p.31・32・33)

 

孤独とは、われわれが自分自身でわれわれの存在を選ぶということを内にふくんでいる。孤独は不安に相伴なう”(①p.41)

 

実存主義が示そうと心がけているのは、自由なアンガジュマン―このアンガジュマンによって各人は人間の一つの型を実現しつつ自分を実現していく”(①p.58)

 

“人間の定義としての自由は他人に依拠するものではないが、しかもアンガジュマンがおこなわれるやいなや、私は私の自由と同時に他人の自由を望まないではいられなくなる。他人の自由をも同様に目的とするのでなければ、私は私の自由を目的とすることは出来ないのである”(①p.68)

 

“人間は絶えず自分自身のそとにあり、人間が人間を存在せしめるのは、自分自身を投企し自分を自分のそとに失うことによってである”(①p.74(ヒューマニズムについての言葉)

 

*******

 

人間は何者でもなく、自分の本質は自分自身で造る。主体的に生き、未来に向かってみずからを投げ出す(投企する)。

みずから選択する自由を持ち、それに伴う責任があり、だから不安であり孤独であるのだ。

人間はみずからの価値を自分で決めていくことができる。

 

うわぁ…!

心揺すぶられる!!

 

不安や孤独を否定しない。

自由だからこそ、不安であり孤独なんだ。

不安や孤独を感じているのは、自由だからだ。

 

そして、アンガジュマンという思想。

自分の責任において、自分の人生をつくっていく。

前に向かって自分を投げ入れ(投企:project)、自分を巻き込み、参加させ、態度表明し、未来を造っていく。

 

サルトルは亡くなる3週間前の対談で希望について語っている。

「〈世界は醜く、不正で、希望がないように見える〉といったことが、こうした世界の中で死のうとしている老人の静かな絶望さ。だがまさしく、私はこれに抵抗し、自分ではわかっているのだが、希望の中で死んでいく。ただ、この希望、これをつくり出さねばね」(②p.129)

 

海老坂武先生は、「100分de名著」の中で「この言葉を発したことがサルトルにとっては“投企”だった」と話していた。

 

自分の運命が自分の中にあること、

世界に絶望しても、希望を造り出すことができるという言葉を残し、

それを表明し続けたサルトル

 

哲学、難しい!!

でも、いい!!

 

もっと読みたいなぁ。

サルトルの講演で出てきたデカルト、カント、ハイデガーマルクス…色んな哲学者の思想を知っていたら、もっと深くサルトルの言葉が自分の中に刻まれるだろうな。

評伝を書いたジュネやパートナーのボーヴォワールのことももっと知りたい。

疎外についてのマルクスサルトルの捉え方の違いとか、

友愛と民主主義の関係とか、

キリスト教実存主義とか、

もっと知りたい。

 

「地獄とは他者のことだ」についても深く考えてみたい。

 

 

でも、今日はもう限界だぁ…。

 

私は、これからご飯を作り、お風呂に入り、明日の準備をして、寝る。

明日は仕事に行き、洗濯をし、ご飯を作り…

そんな毎日が続いていく。

週末には本を読み、こども達と対話する。

 

それらひとつひとつを主体的にする。

 

私が私を造る。

 

それが今の私にとっての「希望」の形の一つです。

 

胸を打つ文章について思うこと

胸を打つ文章や心を揺さぶる文章の共通点ってなんだろう。

 

繊細な感性?

ひとつの物事を色々な角度から深く見ることができる洞察力?

文章のリズム、ビート?

 

もちろんそうだと思うけれど。

 

やはり、誰かが何かに真剣に向かい合った体験を紡いだ言葉は、本物が持つ唯一の力があって、胸を打つし、心が揺さぶられる。

 

息子の小学校で時々「日記」や「作文」の宿題が出る。

提出前に読ませてもらうと、ひらかなばかりのバラバラした文章に(なんじゃ?これは文章…なのか?)(もっと書くことあるんじゃないかなぁ…)って少し残念に思う時と、

ぐぐぐぐーっと文章に引き付けられて「これ、すごくいい文章やん!」って感動する時がある。

将棋の大会で負けてしまった時のこと、運動会のリレーで思いがけず速く走れたこと…。

自分が真剣に向き合ったり、本当に心が動いた時のこと、

そういうことを書く時は、書き手の息遣いが聞こえてくるような文章が意図することなく生まれるのだと思う。

 

昔読んだ瀬戸内寂聴の小説のあとがきに、書き進めていくうちに自分の意図しないところで登場人物が勝手に動き出して、それをただただ書き留めたというようなことが書かれていて、「そんなことがあるのか!」ってすごく驚いた。

まるで『ガラスの仮面』の北島マヤに役が憑依するように、小説家に登場人物が憑依することがあるのかな。

小説を書く作業に深く深く入り込んでいると、そのようなこともあるのかもしれない。

 

…少し、話が逸れてしまいました。

 

最近は、塾の受験体験記を読むたびに、12歳がこんなに胸を打つ、心を揺さぶる文章が書けるってすごいなぁ…って思う。

読みながら、息を飲んだり、ハラハラしたり、安堵したり、ひとつひとつのドラマがある。

結果がどうであれ、そこに真剣に向かい合ったからこそ書ける文章なんだろう。

 

 

『金の角持つ子どもたち』(藤岡陽子/著、集英社文庫)を読んだ。

 

 

(以下、ネタバレを含む感想です)

 

 

まるで長い「中学受験体験記」を読んでいるようだった。

主人公の少年がとても立派で、読みながら、思わず息子に「この子、めっちゃ偉いで!」と言ってしまった。

息子からは「それ小説の中の話やろ?」とあっさり返された。

 

必死な自分に恥ずかしくなってしまった。

 

この小説では、主人公の少年のひたむきな頑張りに、周りの大人たちも変わっていく。

 

以前このブログでも記した『翼の翼』は、大人のズルさや醜さが生々しく描かれていて、他人事とは思えない切実さを持って私に迫ってきた。あの本は、まさに私への〈劇薬〉だった。そして、非常に効果的な薬だったと今も思う。

 

この『金の角を持つ子どもたち』は、教育ってなんだろう…って考えさせられる本だった。

 

成績トップの美乃里に、受験前日に塾講師が掛ける言葉が心に残っている。

 

「おまえが大人になったら、その能力を他の人にもわけてほしいんだ」

「おまえのようになりたくてもなれない人が、世の中にはたくさんいる。いろいろな理由で不本意な生き方しかできない人が驚くほどたくさんいるんだ。おれは、美乃里のその恵まれた能力を、自分だけのものにせず、多くの人にわけてあげてほしいと思ってる」(p.247)

 

“誰もが強く生きたいと願っているのだ。自ら弱者になる者など、どこにもいない。だから弱い人を見捨てないでほしいと、加地は、自分の生徒でいるのはこれが最後になるだろう美乃里に伝える”(p.248)

 

この小説には様々な事情を持つ人が出てくる。

家庭の事情で高校生の時に教育を受けることを断念した母、

学歴コンプレックスを抱えながら働く父、

難聴の妹、

勉強についていけず学校に行かなくなり、引きこもってしまった男性。

 

為す術がなかったり、最初から諦めてしまったり、自分の努力だけではどうにもならないものを抱えていたり…。社会はそんな悔しさや怒りや悲しみで溢れている。

分断されていく社会で、

努力して、「勝ち組」になるのではなく、

努力して身に着けた知と強さを社会に還元してほしい。

それって、キレイゴトだろうか。

 

塾講師の加地は、こども達の頭に〈金の角〉が見えることがあるという。

“極限まで努力し続けた子どもたちには、二本の硬く、まっすぐな角が生える”(p.254)

金の角はこども達の〈武器〉でその角がこども達の人生を守るのだそうだ。

 

金の角は、本物の「知性」であり、「強さ」であり、「自信」なんだろうなと私は思った。

 

その角を生やすために、過酷な中学受験に挑む必要性があるのかは、実際よくわからない。

私にはまだこの小説にリアリティを感じることはできない。

 

でも、塾講師の加地先生の想いは伝わった。

この小説を通して、大切な言葉をたくさんもらった。

 

いつかこの本の言葉がリアリティを持って私の中におりてくることがあるだろうか。

 

小説を読み終えて、本を閉じた時、しばらく考えてしまった。

私の頭には金の角があるだろうか…。

旅に出たくなる本

今、ここに生き辛さを感じて、世界が灰色で、息が詰まって苦しかったら、旅に出てみるといいかもしれない。

 

自分の心に耳を澄ませて、自由に出かけてみるって素敵だ。

 

きっと、その旅が、今、ここの自分に色をもたらしてくれる。

 

この本を読んでそんなふうに思った。

 

『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』(若林正恭/著、文春文庫)、

面白かったー!!

 

この本は、

ひとつひとつの違和感に引っかかって、立ち止まって、その違和感の正体を見つけようと問いかけている筆者の思考や出会いの記録。

キューバ、モンゴル、アイスランドへの瑞々しい旅の記録。

そして父への追悼の記録だ。

 

この本の中でたくさん好きな文章があるけど、なかでも離陸する飛行機でのここが好きだ。

 

“ぼくは飛行機に向かって、「行け、行け、行け!」と念じていた。ものすごいスピードで空港のビルが後ろに押し流されていく。それに重なってぼくの嫌いな言葉も進行方向からフェードインしてくる。「コミュ障」「意識高い系」「スペック」「マウンティング」「オワコン」…。どの言葉にも冷笑的なニュアンスが込められていて、当事者性が感じられない。それらの言葉も、ものすごいスピードで後方にフェードアウトしていく。

 5日間、この国の価値観からぼくを引き離してくれ。同調圧力と自意識過剰が及ばない所までぼくを連れ去ってくれ。”(p.42)

 

格差社会、勝ち組、負け組、不寛容社会、新自由主義、資本主義…。

 

自分が住む社会システムが生み出す現象が息苦しさを生んでいる。

その〈システムを相対化するカード〉を手に入れるために、筆者は自分が経験したことのないシステムで生きている人たちの住むキューバに向かう。

 

前回のブログで引用した高橋源一郎先生の言葉を借りると、この本は私にとって〈親友のような本〉。

 

あぁ、同じ息苦しさを感じている人がここにいて、その息苦しさの向こうにあるものの正体を問い続けてる人がいるんだ…って思う。そのことが私の心を強くする。

 

 

この本を読み終えて、私の大切な人に伝えたい。

 

もし、あなたがただ世界にひとりぼっちだって思ったり、モヤモヤした思いに押しつぶされそうになったら、本を開いたらいいよ。

きっと親友のような本がどこかにあるよ。

 

役に立つとか為になるとかそういうのとは違う、近くで同じ苦しみを持ちながら、欠落を抱えながら、静かに、時に熱く語りかけてくれる本があるよ。

 

 

そういえば、読書って旅に似ている。

良い本は、狭い世界の中でグルグル悩んでいる私を新しい世界に連れて行ってくれる。新しい景色を見せてくれる。

 

本とともに、旅に出よう。