胸を打つ文章や心を揺さぶる文章の共通点ってなんだろう。
繊細な感性?
ひとつの物事を色々な角度から深く見ることができる洞察力?
文章のリズム、ビート?
もちろんそうだと思うけれど。
やはり、誰かが何かに真剣に向かい合った体験を紡いだ言葉は、本物が持つ唯一の力があって、胸を打つし、心が揺さぶられる。
息子の小学校で時々「日記」や「作文」の宿題が出る。
提出前に読ませてもらうと、ひらかなばかりのバラバラした文章に(なんじゃ?これは文章…なのか?)(もっと書くことあるんじゃないかなぁ…)って少し残念に思う時と、
ぐぐぐぐーっと文章に引き付けられて「これ、すごくいい文章やん!」って感動する時がある。
将棋の大会で負けてしまった時のこと、運動会のリレーで思いがけず速く走れたこと…。
自分が真剣に向き合ったり、本当に心が動いた時のこと、
そういうことを書く時は、書き手の息遣いが聞こえてくるような文章が意図することなく生まれるのだと思う。
昔読んだ瀬戸内寂聴の小説のあとがきに、書き進めていくうちに自分の意図しないところで登場人物が勝手に動き出して、それをただただ書き留めたというようなことが書かれていて、「そんなことがあるのか!」ってすごく驚いた。
まるで『ガラスの仮面』の北島マヤに役が憑依するように、小説家に登場人物が憑依することがあるのかな。
小説を書く作業に深く深く入り込んでいると、そのようなこともあるのかもしれない。
…少し、話が逸れてしまいました。
最近は、塾の受験体験記を読むたびに、12歳がこんなに胸を打つ、心を揺さぶる文章が書けるってすごいなぁ…って思う。
読みながら、息を飲んだり、ハラハラしたり、安堵したり、ひとつひとつのドラマがある。
結果がどうであれ、そこに真剣に向かい合ったからこそ書ける文章なんだろう。
『金の角持つ子どもたち』(藤岡陽子/著、集英社文庫)を読んだ。
(以下、ネタバレを含む感想です)
まるで長い「中学受験体験記」を読んでいるようだった。
主人公の少年がとても立派で、読みながら、思わず息子に「この子、めっちゃ偉いで!」と言ってしまった。
息子からは「それ小説の中の話やろ?」とあっさり返された。
必死な自分に恥ずかしくなってしまった。
この小説では、主人公の少年のひたむきな頑張りに、周りの大人たちも変わっていく。
以前このブログでも記した『翼の翼』は、大人のズルさや醜さが生々しく描かれていて、他人事とは思えない切実さを持って私に迫ってきた。あの本は、まさに私への〈劇薬〉だった。そして、非常に効果的な薬だったと今も思う。
この『金の角を持つ子どもたち』は、教育ってなんだろう…って考えさせられる本だった。
成績トップの美乃里に、受験前日に塾講師が掛ける言葉が心に残っている。
「おまえが大人になったら、その能力を他の人にもわけてほしいんだ」
「おまえのようになりたくてもなれない人が、世の中にはたくさんいる。いろいろな理由で不本意な生き方しかできない人が驚くほどたくさんいるんだ。おれは、美乃里のその恵まれた能力を、自分だけのものにせず、多くの人にわけてあげてほしいと思ってる」(p.247)
“誰もが強く生きたいと願っているのだ。自ら弱者になる者など、どこにもいない。だから弱い人を見捨てないでほしいと、加地は、自分の生徒でいるのはこれが最後になるだろう美乃里に伝える”(p.248)
この小説には様々な事情を持つ人が出てくる。
家庭の事情で高校生の時に教育を受けることを断念した母、
学歴コンプレックスを抱えながら働く父、
難聴の妹、
勉強についていけず学校に行かなくなり、引きこもってしまった男性。
為す術がなかったり、最初から諦めてしまったり、自分の努力だけではどうにもならないものを抱えていたり…。社会はそんな悔しさや怒りや悲しみで溢れている。
分断されていく社会で、
努力して、「勝ち組」になるのではなく、
努力して身に着けた知と強さを社会に還元してほしい。
それって、キレイゴトだろうか。
塾講師の加地は、こども達の頭に〈金の角〉が見えることがあるという。
“極限まで努力し続けた子どもたちには、二本の硬く、まっすぐな角が生える”(p.254)
金の角はこども達の〈武器〉でその角がこども達の人生を守るのだそうだ。
金の角は、本物の「知性」であり、「強さ」であり、「自信」なんだろうなと私は思った。
その角を生やすために、過酷な中学受験に挑む必要性があるのかは、実際よくわからない。
私にはまだこの小説にリアリティを感じることはできない。
でも、塾講師の加地先生の想いは伝わった。
この小説を通して、大切な言葉をたくさんもらった。
いつかこの本の言葉がリアリティを持って私の中におりてくることがあるだろうか。
小説を読み終えて、本を閉じた時、しばらく考えてしまった。
私の頭には金の角があるだろうか…。