本と珈琲、ときどきチョコレート

観たり、聴いたり、心が動いたり…日々の記録

『みかづき』

みかづき』(森絵都/著、集英社)読了。

おもしろかった。今、読めて良かった!

「教育」についてモヤモヤしている方に、おすすめの本です。

読みながら人物達が浮かび上がって動き出して、まるでその時代時代に私がそこにいて、一つ一つのシーンを観ているようだった。

読書しながら、登場人物達とともに怒涛の体験をして、今読み終えて本を閉じて、ほぅっと一息ついています。

 

 

(以下ネタバレを含む感想です)

 

 

 

「自分の頭で考えるのよ」

読後も千明の言葉が私の中で響いてる。

 

この本では、戦中・戦後から現在までの教育の流れが4世代の登場人物とともに描かれている。

満ちることのない月。

誰もがそんな月なのかなと思う。

 

私は団塊ジュニア世代で氷河期世代

こどもの頃、進学塾や補習塾がたくさん近所にあった。

父は「塾なんか行かなくていい。学校の勉強がちゃんとできていたらええんや」と言っていた。「塾なんか」という言葉は今も心に残ってる。中学二年生くらいで、自分で塾のチラシを集めて親に見せて、「塾に行かせてください」と頼んで行かせてもらった。

そんな私が親になり、小学生の子どもに私から「塾に行ってみる?」と聞いている。

 

教育基本法の変遷と塾の関わり、教育に関わる人の想い、翻弄されるこども達。本を読みながら、日本の教育の大きな流れに飲まれ、一体この流れはどこに向かっていくのか…とクラクラした。そんな中、一郎やその周りの人たちの地に足をつけた一歩は希望だと思った。

 

そして、どんな時代に生きても、「自分の頭で考える」ということが大切なんだと思う。

知らず知らずに千明から私も影響を受けてるみたい。

 

 

 

【印象に残ったところ】

・吾郎の持つ「待つ力」

・(千明の言葉)「正義や美徳は時代の波にさらわれ、ほかの何ものかに置きかえられたとしても、知力は誰にも奪えない。(略)十分な知識さえ授けておけば、いつかまた物騒な時代が訪れたときにも、何が義であり何が不義なのか、子どもたちは自分の頭で判断することができる」(p.17)

・(矢津の言葉)「新しい道はいつだって、歩いてみるまで正体が知れないものですよ」(p.23)

・(八千代塾で消しゴム禁止の理由を問われた時の吾郎の言葉)「誤答が消えたら、子どもたちは弱点を忘れてしまう。自分がどこでつまずいたのか省みるすべがなくなる。実際、消しゴムを多用する生徒ほど似たような問題に何度もひっかかるものです」(p.52)

・(証券会社から塾に転職した勝見の想い)どうせ一度の人生ならば、金より価値のある何かのために自分を使いたい(p.71)

・(教え子の孝一に塾の教員を頼んだ時の吾郎の言葉)「君なら大丈夫だ。君は最初からできる生徒じゃなくて、できるまでやりぬく子だったからね」(p.81)

・(公立小学校での教科書の無償配布が始まったことについての記述)世の親たちに歓迎されたその施策の裏で、時を同じくして、学校教員の教科書を選ぶ権利が奪われ、教育委員会の手に渡っていた。教育現場の自由がまた一つ制限されたのである(p.87)

・(頼子の言葉)「どんな子であれ、親がすべきは一つよ。人生は生きる価値があるってことを、自分の人生をもって教えるだけ」(p.153)

・(千明の父の言葉)「千明、戦争は集団の狂気だ。ぼくらは狂った時代にいる。あてになるのは自分自身の冷静な知性だけだが、今の教育は子どもたちからそれをとりあげようとしている。考える力を奪い、国の随意にあやつれる兵隊ロボットを量産するための教育だ。みすみす自分を明け渡すんじゃないぞ、千明。考えろ」(p.176)

・(千明の言葉)「冷夏の影響で野菜の値段が高騰している、とラジオで報じられたとするでしょう。敗戦のあと、私が中学生だったころは、そうした報道も学校での授業にとりこまれて、報じられた内容をどう受け止めるか、あるいはどう疑うか、子ども同士で徹底的に議論させるような教育が行われていたのよ」(p.216)

・(蕗子の言葉)「学びの場を選べない子どもたちによりそって、ともに学びあう。定められた条件の中で、精一杯、自分にできることをする。それが、私の本望です」(p.221)

・(蘭の言葉)「子どもっていうのは、顧客であって、顧客じゃない。だって入退会を決めるのも、お金を払っているのも、彼らじゃなくて保護者だから。塾に通ってくる子どもたち自身は、いつもどこまでも無力なんだよね」(p.328)

・家計に余裕がある子とない子。その溝を深めた責任の一部はゆとり教育にもあるのではないか(p.368)

・祖母の口癖であった「自分の頭で考える」力も、言葉をあやつる能力と密接にかかわっている気がする。直哉は「思い」が足りないのではなく、「思いを形にする力」に欠けているのではないか。だとしたら、どうすればその欠落を満たしてやれる?(p.419)

・教育は、子どもをコントロールするためにあるんじゃない。不条理に抗う力、たやすくコントロールされないための力を授けるためにあるんだ―。(p.457)

『翼の翼』

『翼の翼』(朝比奈あすか著、光文社)を読んだ。

 

(以下、ネタバレも含む感想です)

 

 

この本、読もう読もうと思いながら、怖くて手が出せなかった。きっと本の中に「私」がいると思ったから。

やはり「私」がいた。

 

読み始めたら頁を閉じることができなかった。

読みながら、「ひどいひどい!」と声を挙げたり、ボロボロボロボロ涙がこぼれた。

 

読んだ後ズシーンと胸が重くなって、怒りや悲しみやいろんなものが渦巻いて、苦しくなった。

 

でも、読んで良かった。

 

2022年、自死した小中高生は514人で過去最多になったという。

その異常事態が、この小説とともに胸に突き付けられる。

 

翼くん、よく生きていてくれた…。

その翼でどうかこの家から飛び去ってほしいよ。

 

感想を書こうと本を開くと、ムクムクムクムク腹が立って、冷静さを失ってしまって、

うまく感想が書けない。

 

こどもを思い通りにしようとする親がいて、

それに応えようとするこどもが本当にかわいそうだ。

家庭の中で愛という仮面をかぶった人権侵害が行われている。

 

今年初めから、私の中で響き続けている言葉がある。

「あなたは、こどもをバカにしていませんか?」

 

こどもを自分の思い通りにしようとしているとき、

自分とこどもの境界がなくなっているとき、

こどもをコントロールしようとしているとき、

この言葉が私を正気にさせる。

 

「あなたは、こどもをバカにしていませんか?」

 

幸い、息子は私が思い通りにしようとしたり、侵蝕しようとしたり、コントロールしようとしたら、猛烈に反発し、反抗する。

 

「おこさんが明日葉さんに反抗していて安心しました」と言われた時、ハッとした。

 

そうだ。こどもの反抗は、未熟な私へこどもがこどもの世界や想いをぶつけていることなんだ。

 

この本の翼君は本当に〈良い子〉で、母に侵蝕されてしまう。

 

もう、この母親、そして父親もほんまに腹立つ!!夫方の祖父母もな!!

くだらねえ奴ら。

こどもを自分達のおもちゃにして。こどもを潰すやつら。

 

ちいさな子たちを競わせて追い詰めて、一体何を得ようとするんだろう。

こどもを使って自尊心を高めようとするなんて…、嫌悪感が湧く。

 

一度中学受験という列車に乗ると、降りられない。

すごくよくわかる。

それは本当に狭い狭い世界のことなのに。

 

「こどもが望んだから」そう言って、親は自分の行かせたい道にこどもを誘導する。

こどもって、親の想いを汲むのが本当に上手だ。悲しいくらい。

 

 “「ねぇ、大丈夫なの?つーちゃん」 もはやそれを聞くことで何を得たいのか、円佳自身も分からない。だが口は勝手に動く。成人し、子どもを産み育てている母親の口が我が子相手だと、こうも制御なく動くのだ。傷つけたいわけでも、プライドを損ないたいわけでも勿論なく、ただ自らの不安ゆえに思ったことを垂れ流す母の口を前に、息子は何を言えばいいのだろう。白い頬を持ち上げて、大丈夫だと答えるしかない” (P195「十歳」より)

 

 

ひでぇ親。

 

 

小学校の時同じ登校班だったS君は教育虐待されてた。

マンションの隣の部屋からは「こんな問題がわからないのか!」という父親の声と、S君の泣き声が響いてた。

ある冬の日、ベランダに出されたS君の泣き声が聞こえて、たまらず、私が自分の部屋のベランダから「どうしたの?」「大丈夫?」と声を掛けたら、S君の母親から「ほっといてください!!」と金切声で怒鳴られた。

夜遅くまで勉強させられているようで、毎朝登校班に遅れていた。私はS君を迎えに行き、遅れて一緒に登校していた。

 

ちいさくておとなしい男の子。

青白い顔のお父さんとお母さんの一人っ子。

 

私はこども心に「隣の親やべぇ」って思ってた。

私は転校した後もその子のことが気になってた。何年か後、母からその子が名門中学に行ったと聞いた。母が「あんなに勉強させられて、大丈夫かしらねぇ、変な親だったねー」と言った時、「おいおい、大人だったら、隣のこども助けてやれよ」って思ったな。

 

S君、この本の表紙の翼君とよく似た顔の男の子だったな。

背が小さくて、白い顔の子だった。整った顔だった。ほとんど笑わない子。

朝迎えに行く時、その子に笑ってほしくて、私はお姉さんぶって精一杯優しくしたり笑わせた。S君のはにかんだ笑顔がかわいかった。

 

あの学校を卒業して、今何してるのかな。

親なんか捨てて、羽ばたいていてほしいな。

 

そういえば、虫取り籠と網を持ったS君と父親にマンションのドアの前で会ったことがあった。覇気のないおとなしそうなお父さんだと思った。S君は嬉しそうだったな。

虫取りとかするんだなって意外に思った。

 

 

S君のお父さんもお母さんも〈一生懸命〉だったのかもしれない。

 

 

この本の母親は翼の個別指導料を稼ぐために、ホームセンターでパートを始める。

 

そこで、お客さんから商品のこともっと勉強しなさいと言われるシーンがある。

 

これ、大事よなぁ。

 

働いていると、自分の未熟さを日々痛感するもの。

 

この本には色々思うところがあって…

翼君に、

母親が「女の子に負けちゃだめじゃないの」と言ったり、

父親が「男のくせに」と言ったり。

 

両親の何気ない無意識のジェンダー意識にカチンと来る。

 

 

本を読むとカチンとくるのに、自分がそこに確実にいて。

 

 

なんかすごい本だった。

 

朝比奈あすかさん、この本を書いて下さって、ありがとうございました。

すごく貴重な読書体験でした。

 

哲学教室「生きる意味とはなにか」

今日は対話する哲学教室「生きる意味とはなにか」(ヨノナカ実習室さん)に参加しました。

ファシリテーターは松川えりさん。

 

今回のテーマは、「生きる意味がある」ということを前提にした問いなんだなぁ。

(これ、参加する前に私が感じてたモヤモヤを言葉にして下さった方がいてうれしかった)

 

 

生きることに意味ってあるんだろうか。

 

テキストの姉妹の会話を読むと、

 

妹は、

“生きるとは演じること”

“「ほんとうの自分」は見つけるもの”

って思っている、

 

姉は、

“生きるとは人生を自分でつくりあげること”

“「ほんとうの自分」は自分でなっていくもの”

って思っている

 

ようだ。

 

と、すれば、私は妹に近いかな。

家庭で、職場で、地域で、色んな場面に合わせて自分を演じているから。

(でも、姉のように考えて行動している時もある)

 

では、「ほんとうの自分」って何?

 

「自分を抑えず、自分自身のままでいて、そのことが周りにみとめられていること」って私は思うけれど。

どうだろう。

 

実は「ほんとうの自分」という表現に抵抗感もある。

それは、私がうまくいかない時の言い訳に、

「本当の私はこうじゃない」とか「○○のせいでうまくいかなかった」「今は○○があるから全力じゃない、ほんとうの自分じゃない」って心の中でつい誰かや何かのせいにしてるから。

 

そういう自分が嫌で、

そして、心の底ではわかってる。

「ほんとうの自分」を探すんじゃなくて、「今の自分」と向き合うことが前に進むために大切だということを。

 

 

そもそも「ほんとうの自分」なんているの?

 

皆さんの話を聞きながら、色んな側面から「ほんとうの自分」を見てみる。

 

・演じている自分も「ほんとうの自分」。

・環境が変わると「ほんとうの自分」が変わる。

・こどもの頃は自分がわからなかったけど、年を重ねて自分を知って「ほんとうの自分」になっていく。

・「自分」はマトリョーシカ人形のように何層にもなっていて、その中心に、ズルい汚い自分(ほんとうの自分?)がいる。

 

・・・おもしろい。

「自分とは何か?」という問いをもっと色んな側面から掘ってみたいな。

 

そして、「生きる意味とは何か?」

そもそも、「生きることに意味はあるの?」

 

心に残っている皆さんの言葉…

「望んでいないけれど、生まれてきて、生きている」

「生かされてるから生きている」

「生きる意味がないなら生きていても仕方ない」

「生きる意味を作って楽しみたい」

「意味というより目標・目的があると生きていることがおもしろくなる」

 

いくつもの言葉から、

「生きる」っていうことの色んな側面が見えてくる。

 

 

私は生きることに“意味”はなくて、

というより、

そこにはただ“美しさ”があるって思うんだよなぁ。

 

(あ、だからこのシリーズの「美」の章がいつもワクワクするのか)

 

生きることは自分の思う美しさを追求することなのかなぁ。

 

本当は、どんな人も生きているだけで美しいんだって言いたい。

キレイゴトかな。

 

モヤモヤモヤモヤ・・・

うまく言葉にできない。

よくわからなくなってきました…。

今日のモヤモヤ振り返りはここまでにします。

 

今日のモヤモヤをきっかけに、サルトルの『実存主義とは何か』を読んでみようと思います(『100分de名著』からね…!)。

 

 

【追記(2023.6.26.)】

なんだか対話の後のモヤモヤが収まらなくて、なんでかなぁと、もう一度振り返ってみた。

 

対話の中で、

アクィナスの「人生には〈客観的価値〉がある」(人がどう感じるかとは関係なく、人類の幸福に貢献したという価値をもつ)

と、

サルトルの「人生の〈主観的価値〉を重視」(本人がそのことに意義を見出せなければ意味がない)

のどちらに自分の考えが近いか?

という話になった時、

 

私はアクィナスかなぁ…。でも神の存在には懐疑的だけど…。

って思い、発言がグチャグチャしてしまった。

 

それは、どんな人でも、意図しても意図しなくても、誰かの幸福に貢献しているっていう実感があるからなんだけど。

 

だから、その人がたとえ生きる意味を見出せなくても、その人には「価値がある」って言いたかったんだけど。

 

なんだか、すごく見当違いのことを言ってしまったと反省している。

(これは、夫に対話の流れを話してみて気づけたことでもある)

 

人がみんな価値を持つということと、それを〈自分〉がどう思うか(どう捉えるか)ということは違う。

 

私は、どんな人でも命にしたがって価値があると言ったけれど、

 

 

それとともに、〈ほんとうの自分〉を

「自分を抑えず、自分自身のままでいて、そのことが周りにみとめられること」

と話していた。

 

これって別の話だ。

 

私の中で、〈周りにみとめられる〉、〈受け入れられる〉ってことが生きる意味に繋がっている。

 

参加者の方が「仕事でみとめられると生きる意味を感じる」と話されていたけれど、「そうだよなぁ」って思う。

 

みとめられること、受け入れられる場って大切だ。それは、家庭でも、職場でも、地域でも。そして、たとえ仕事でうまくいかなくても、家族に受け入れられたり、友人がみとめてくれたり、そういうことで乗り切れていることってたくさんある。

20代の八方ふさがりの時、クリスチャンの友人が「大丈夫。神はあっちゃんを愛してるよ」って話した時、私はクリスチャンではないけれど、強い気持ちになって前に進めた。

 

でも、一方で、

(誰かにみとめられなくてもいい、みとめられる必要はない、)

「自分が意義を見出してるのか?」

って問いかける声も、この対話を経て聴こえてくる。

 

 

不安はなくならないけれど、

すぐにモヤモヤモヤモヤするけれど、

 

ふらつきながらも、

自分の人生を自分の足で歩いていこう。

えほん哲学カフェ『みんなたいぽ』

今日はスロウな本屋さんの「えほん哲学カフェ」に参加した。ファシリテーターは松川えりさん。

おもしろかったー!絵本を2時間ゆっくり味わいました。

 

振り返ると、私は「てつがくカフェ」に出会って、3年少し。

以前は生活の中でモヤモヤが出てくると、モヤモヤを消そうと躍起になっていたり、なんとかそれらしい答えを見つけて自分を納得させたりしていたけれど、

「てつがくカフェ」に時々参加するようになって、

モヤモヤ掘ってくと面白い、人によってモヤモヤポイントって全然違うんだって新鮮な発見があって、

モヤモヤを楽しめるようになった。

 

「モヤモヤ」を一旦突き放して眺めてみたり、「モヤモヤ」の中に入り込んで分類してみたり、「モヤモヤ」をかき分けて新しい景色を見つけたり、そういう方法を「てつがくカフェ」の対話を通して知ることができたのは、うれしい。

 

「対話」ってやっぱりいいな。一人でじっくり考えることも大切だけど、一人だと「モヤモヤ」がグルグルして、出口や光が見えなくて苦しくなってしまうこともあるから。複数で「対話」をすると、思わぬところに絡んだ糸をほぐす手がかりが見つかることがある。新しい景色を見ることができる。対話しながら「ハイキング」する感じ(たしか…以前、松川さんが「てつがくカフェ」を「ハイキング」に例えて説明して下さったと思う)。

 

順調に進んでるように感じる時もあれば、話しながら自分が何を言いたいか、どこに行きたいのかわからなくなったり、みんなでグルグル回って一緒に穴に入りこんでいるように感じることもある。そんな時は、ファシリテーターの松川さんやメンバーの誰かの言葉をきっかけに、「ちょっと待って、今私どこにいる?」「この道とこの道と、私どっちに行きたいんだろう?」と立ち止まって、発言や対話を見直したり整理できるので、安心して迷子も楽しむことができる。

 

「てつがくカフェ」は、その日限りのメンバーとともに、モヤモヤの森の中で道を見つけながら、自分やメンバーに問いかけながら私にとっての「こたえ」を見つけに歩く時間。

そんななかで「あぁ、そうだ、これだ」「これが〈ほんとうのこと〉なんじゃないか?」って思える光が時々見える。

 

そしていつも、「こたえ」と思ったものが揺らいで、また新しい問い(モヤモヤ)が浮かんでくる。

 

とりわけ、「絵本てつがくカフェ」の楽しさは、五感を刺激しながら考えることができることかなぁと思う。

五感の中でも視覚・聴覚・触覚。(味覚は、絵本の中のお菓子を再現したり、嗅覚は新しい本の匂いに贅沢さを感じたり、古い本の匂いに懐かしさを感じたり…というのがあるかな…。でも、てつがくカフェでその辺り(味覚・嗅覚)を掘ったことはないかなぁ)

 

絵が表していること、読み聞かせを聞いて感じること、ページをめくる手の感覚…。そういうところもモヤモヤを解く材料になるし、なんといっても絵を眺めると楽しくて、コトバだけで考えているときより煮詰まりにくい。

 

今回の絵本は、『みんな たいぽ』(マヒトゥ・ザ・ピーポー文・荒井良二絵)。

 

(以下ネタバレあります)

 

昨日スロウな本屋さんで受け取って、自宅で読んでみて、出た感想は「なんじゃこりゃ?!」「かわいいんだけどなんかこわい」「“たいほ”じゃなくて“たいぽ”ってなぜ?響きがなんかかわいい。でもちょっと茶化されてる感じ?」「罪のない人・ものは何ひとつないんだなぁ(罪って何?)」「最後の“きゅうたい”は何だろう?(世界の終わり?始まり?)」。

 

小6の息子は「なんだこんな本!」「みんな逮捕されて、最後溶けるってなんやねん!」と怒っていた。

 

てつがくカフェで皆さんの話を聞いて、これって、ハチャメチャな世界の話だと思ってたけど、「え?これって今・ここの話?」ってゾッとした。

 

「たいぽ」って表現を「タイプミス」や「皮肉」って表現されている方がいた。これって「私や私たちの社会の問題?」って思って読むと、恐ろしさにドキリとする。

…何がどうしてこんなにこじれておおごとになっちゃったのかな?

 

罪を犯した人の話を聞かず、一方的に逮捕する“ぼく”。

罪を犯した経緯を確認せずに、取りあえず逮捕する“ぼく”。

言われるままに「ことば」「もじ」「いろ」「おと」を逮捕する“ぼく”。

自然災害(たいふう)も逮捕する“ぼく”。

最後に人間みんな逮捕して、自分も牢屋に入って、鍵を飲み込む“ぼく”。

 

“ぼく”は何?

 

おまわりさん(ぼく)に「共感した」と話した人がいた。

私はおまわりさんは職務に忠実で、最後は自分も牢屋に入っちゃって、悪い人ではないんだろうなぁ…なんて思った。

「おまわりさんがどんどん厳しく怖い顔になっていく」と話した人もいた。

 

ほんとだ…。

厳しくて怖くて、なんか苦しそうな顔。辛そう。

鍵を飲み込んだ時の顔はなんだかほっとしているようにも見える。

 

逮捕された「ことば」「文字」は、言論、SNS上の傷つける言葉、「音」は、保育園や公園のこども達の声(騒音?)、「色」は肌の色、服の色…?

瞳に炎を映したライオンは芸術家?

 

読めば読むほど、これは私たちの今の姿なのでは…?と思える。

 

「何を私達は取り締まろうとしているのか?」と問いかけた方がいて、その発言が私の中でグルグル回った。

 

最後「おたがいがおたがいのちかくで いままで したことのないくらい こえをききました」というところ、

この「声」って一人一人の「本音」だったり「こころの叫び」だったりするのかな、それをお互いが「話して」「聴く」ことで、安心して眠ることができたのかな。

おまわりさん(ぼく)も、そこでたいほした人一人一人の声を聴いたのかな。

そして、ぼくの声も誰かに聴いてもらえたのだろうか。

 

ここではじめて、ほんとうのコミュニケーションができたのかな…。

 

私だったら、最後の“きゅうたい”は「きぼう」と呼ぶだろう。

 

と、思ったところで、

 

「とけちゃう、溶け合うのはよくない」と発言された人がいて、ハッとした。

そうだ。

誰かの言葉、誰かの声はその人のものでしかなく、

だからこそ、その人がその人であるってことなんじゃないか。

 

それが溶け合ったら、

その人がその人であることがなくなってしまう。

 

それはアカン。

 

溶け合った先の最後の“きゅうたい”を「きぼう」と呼ぶことの暴力性を突き付けられた気がした。

そして、息子が最初この本を読んだ時に怒った理由がわかるような気がした。

 

明るくて、メチャクチャで、ナンセンスで、きれいで、かわいくて、笑っちゃうんだけど、

怖くて、ひどい。

 

荒唐無稽なようで、リアル。

 

いい本だ…。

 

 

【追記】

・球体は閉じてるという発言にハッとする。

⇒閉じてる…、確かに。自由でいることって困難なんだ

⇒でも自由でいたい

⇒自由って何?

 

・これは未来の話?みんなが溶け合わないために何ができるんだろう。

 

・世界中の武器を吸い上げて〈たいほ〉したらいいのに…という発言に同意。

 

 

・今回、対話の中の沈黙がとても心地よかったなぁ。

 

 

哲学教室「健康であることと美しいことにちがいはあるか」

とーっても久しぶりの更新です。

 

日曜日は「対話する哲学教室(13)」にオンライン参加しました。

テーマは「健康であることと美しいことにちがいはあるか」

『中学生からの対話する哲学教室』(シャロン・ケイ、ポール・トムソン著、河野哲也監訳、玉川大学出版部)4章のティーンの会話を読んで、哲学者の松川えりさんの進行で参加者が対話をし、後半は松川さんのレクチャーとさらに対話という流れです。

今回も3時間あっという間でした。

 

私にとって、哲学カフェや哲学対話は「聞くこと、伝えること、考えることを諦めない場」。普段、「まぁええやん」「いつかゆっくり考えよう…」と思いがちな私には、とても貴重な場であり時間です。

 

そして、哲学教室が、そのような貴重な時間・場になり得るのは、進行役の松川さん、主催者のスミさん、そして参加者の皆さん一人一人の真摯な姿勢があるからだなぁ…って思います。

 

あー、参加できて良かった…!

モヤモヤは決して消えないんだけれど…消えないどころかおっきくなってるけど…。

 

今回は、表題だけ読むと「美」と「健康」がテーマだと思うのだけれど、ティーンの会話やテキストの内容を読むと、「生命の選別」や「バイオテクノロジー」とか、「生命倫理」や「医療倫理」、「差別」や「多様性」もテーマのよう。どっから切り込んで、どんな対話になるだろうって、探り探りの参加でした。

 

この企画を知った時「参加したい!」と思ったのは、私の中で20代の頃から節目節目で考えてきた「出生前診断」「命の選別」「産む産まないは私が決める」という言葉について、もう一度掘ってみたいと思ったから。それが、「美」や「健康」とどうつながるのか?探ってみたいと思ったから。自分の中の「内なる優生思想」に向き合う怖さもあったけれど。

 

参加する前は、ティーンの会話に出てくる梨花の「あの子たちは生まれてこないほうがよかったんじゃないか」という発言について、参加者の皆さんが批判するような対話の流れになるかなぁ…なんて思ってました。(…「生まれてこないほうがよい」ってコトバ、こうしてキーボードで打つだけでも心臓バクバクする…)。

 

実際は、予想した通りではありませんでした。そして、生きていくことの過酷さをあらためて対話を通して確認していく感じでした。対話を通して切実な現実を知り、「私はどこにいるんだろう、何ができるんだろう」とグルグル思いを巡らせたり立ち止まったり。

 

対話の場は、(おそらく)テーマに惹かれて参加した方々の方の集まりだけれど、誰一人として同じではないことが対話しているうちにわかってくる。

 

こんな時つくづく思う。哲学カフェって、癒しの場ではないんだよなぁ。

対話しながら見たことのない景色を見に行く感じかな。

 

精子バンク」について発言した方がいて、それについて「自分への自信のなさ」「母は器か」と発言した方がいた。

その方が「どんなこどもも受け入れる社会」と発言された時、胸を突かれた感じがした。

 

「どんなこどもも受け入れる社会」、私はそんな社会で生きたい。

 

自分の子も、自分自身も受け入れられないときがある。

私はどうしようもなく利己的だ。

それでも、そんな社会にむかって一歩踏み出せるだろうか…。

これは、「多様性」を尊重できるか…という問いが関わってくるように思う。

 

「自分への自信のなさ」は、SNSの発達やルッキズムとも関連しているのではないか。実体のない、ハリボテのような、誰かが決めた「美」を至上として、欠落感だけ抱えてあえいでいるような…。

 

「優れているものが美しい?美しいものは優れている?」

と問いかけた方がいた。

 

それは違う、と思う。

でも、そんな考えがスルリと入り込んで、自分を支配するときがある。劣等感に心が支配されるときがある。

 

シミや白髪を見つけると、「私は美しくない」と落ち込むときがある。

腰痛で起き上がれないと、「私は怠けてる、健康でない」と責めるときがある。

 

そして、美しさと健康を「価値」(“値打ち”と表現した方がいいかな)と結びつけているときがある。

 

「自分には価値がない」という思いに囚われるときがある。

 

「美しさ」は「価値」(値打ち)とは違うのに。

 

私にとっての「美しさ」は、私を「価値」(値打ち)から「自由」にしてくれるものだから。

 

うーん、振り返りはここまで…。

 

まだまだモヤモヤは広がります…。

 

*****

皆さんの発言から続くワタシのモヤモヤ…

 

・後半の対話で「経済」という指標が入ったことで、モヤモヤが整理されたような…。でも言語化はまたいつか…。

・種の保存と多様性についてもっと掘ってみたい。

・本能って?

・こどもは実子でないとだめなの?遺伝的繋がりとの違いは?

・みんなにとって良い街って?

・マイノリティにマジョリティが合わせてもらってる…。どういうこと?掘り下げたい。

・「恵まれてる」「恵まれない」っていう言葉に私が抵抗感があるのはなぜ?

・「選ぶ」ことはできているようでできない。選んでいるようで選ばされてる?それはなぜ?どんな力がはたらいてるの?

・コントロールできることとできないことは?何かをコントロールすることと傲慢さの関係は?

・「欠落感は消えない」。その欠落感の正体は何?肥大化する欲望と欠落感の向こうには何がある?

・「青空や緑を美しいと皆思う」?私は青空も緑も好きだけど、曇り空も雨も美しいと思う。

 

 

・みなさんにとって「美しさ」や「美しいもの」は何ですか?…そこにはきっと多様性があるのでは?

映画「MINAMATA」

10月3日(日)、シネマクレールで映画「MINAMATA」を観た。

 

映画館から出たら、一緒に観た息子が、「これ、お母さん、知っとったん?」「これ、ほんとに日本であったことなん?」と聞いた。

 

…“知ってた”でも“知らなかった”…

 

「5年生くらいで社会の授業で習ったよ。SKYもきっとこれから習うよ」

 

日本の高度経済成長期に、チッソという会社の工場から、メチル水銀が排水と一緒に不知火海に垂れ流され、汚染された貝や魚を食べた住民が水俣病になってしまった。

 

メチル水銀水俣…自分とは遠い世界のようにも感じていた。

 

チッソの工場では、プラスチックや化学繊維などの原料になるアセトアルデヒドという物質を作っていた。そこで発生した有害な有機水銀の一種がメチル水銀だ。

 

チッソの製品は当時の日本人全体が使っていたものだから、水俣病は、一人一人が自分のこととして考えなくてはならない問題だろう。

 

便利な暮らし、豊かな暮らし、平和な暮らしの向こう側で理不尽な被害に苦しむ人がいる。

 

写真ってすごい力を持っている。

ユージンが家族の写真を撮り、それを私が観る時、そこにいるのはただ「水俣病の人」ではなくて、

かけがえのない「人」、「娘」「息子」「お母さん」「お父さん」…が、生きている姿、愛されている姿、病に苦しめられている姿だ。

 

「写真は撮る者の魂を削る」というユージンのセリフがあった。

命を懸けてシャッターをきり、暗室で心を込めて現像する。

 

その仕事に圧倒される。

 

帰り道、カフェで息子とパンフレットを見ながら、話した。

 

パンフレットの中の、水俣病の青年がユージンにカメラを向けている写真を見て、

息子が、「この人は、水俣病の人怖くないんやな」と言った。

 

「そうやね。だから写真が撮れて、その写真が人の心動かしたんやね」と私は返した。

 

社長役の俳優の写真を見て、

「この人、水俣の人のこともppmって言ってたな。お母さん、覚えてる?コーラの瓶の話の時。海水の中の水銀はppmって言ってて、水俣の人のこともppmって言ってたな。あかんな」と言った。

 

「ほんまやね。微量で影響ないなんておかしいよね。苦しんでる人や訴えてる人がいるんやから、見なあかんよね」

 

息子「今も公害いっぱいあるよな。福島の汚染水の問題もあるし。最後に出てきた世界中の公害のこと、全然知らんかったわ」

 

「私も…」

 

この映画を観て、知らなかったということを知った。

 

それはつらいことだけれど、目を向けよう。私にできることをしよう。

 

安倍元首相が2013年に「日本は水銀被害を克服した」と言ったことを、私はこの映画をきっかけに知った。その発言には水俣病の被害者から反発の声が挙がっていた。

 

今も水俣病で苦しむ人がいる。家族を亡くして辛い思いをしている人がいる。

 

それは決してppmという単位で済ませられることではないんだ。

 

映画のパンフレットにユージンとアイリーンが写真集「MINAMATA」に記した言葉が載っている。

 

「過去の誤りをもって、未来に絶望しない 人びとに捧げる」

 

…未来に絶望しない…

 

 

ジョニー・ディップ演じるユージンが口ずさむ、ボブ・ディランの“Forever Young”、良かったな。

えほん哲学カフェ『わたしのせいじゃない―せきにんについて―』

10月2日(土)スロウな本屋さんの「えほん哲学カフェ」に参加した。ファシリテーターは松川えりさん。

 

絵本を通した哲学対話は、毎回、一人で読んだ時とは違う発見がたくさんある。みんなで「絵本をじっくり味わう」時間。絵本を読んで思ったことや浮かんだ問い、自分の変化を話して、確認する。そして、他の人と感じ方が重なると思ったり、「そんな見方もあるのか!」と驚いたり。

 

対話を通して、一冊の本が自分にとってかけがえのないものになっていく。

 

今回の絵本は、『わたしのせいじゃない―せきにんについて―』(レイフ・クリスチャンソン文・にもんじまさあき訳・ディック・ステンベリ絵)。

この絵本のテーマは重い。実は、今回の哲学カフェには、ワクワク参加する感じではなかった。でも、参加して良かった。対話の最後に「あと一歩前に進もう」と思えた。光が見えた感じがした。

 

私がこの本を読んで強烈にリンクしたのは、小学六年生の頃に教室で起きた事件。ずっと心の中に澱のように溜まっている出来事。忘れたと思っていても、些細なきっかけでその事件を思い出し、加害者への怒りがムクムクと湧いて止まらなくなる。

 

妊娠し、お腹の中の子どもが男の子だとわかった時、私はしばらく沈み込んでしまった。

その事件を思い出して、息子にも同じことが起こるのではないかと恐れたからだ。

その恐れは、息子が成長してからも繰り返しやって来て、その度に私は不安に押しつぶされそうになった。

 

対話の中で皆さんの言葉を聞いて、気づいた。

その事件が30年以上私の中で足踏みし続けているのは、

私がその事件を「自分事」として捉えていなかったからだ。

 

まさに、絵本で最初に登場した女の子の、

「学校のやすみじかんに あったことだけど わたしのせいじゃないわ」

というセリフを、私はずっと心の中で繰り返していた。

この子は、私だ。

 

加害者達を「許さない」と思うことで、「自分事」として向き合うことから逃げていた。

 

教室でK君の涙を見た時、もうそれは、「自分事」になったはずなのに。

 

それをみとめることができなかった。

K君とは話した記憶が全くない。

嫌いでも好きでもない、K君。

 

私は、K君がお母さんに叩かれているところを見たことがあった。偶然家の前を通りがかった時見たのだ。

 

それを誰にも言わなかった。

 

ドラマのこと、漫画のこと、サイクリングのこと、洋服のこと、演劇のこと、バスケットボールのこと、もっとワクワクする楽しいことがたくさんあったから。

 

そう言い訳して、誰にも言わなかった11歳の自分を思い出して、胸がキリキリと痛む。

どうして言わなかったんだろう。

「関係ないと思ったから?」

「関わりたくないと思ったから?」

 

優等生のA君のお母さんが教室での事件を先生に問題提起し、先生が学級会を開いて泣きながら私達を責めて(「私、(保護者達に)責められたんだよ!」と泣いていた)、事件を振り返ってアンケートに書かせたりした。私は、なんだかよくわからない、嫌な空気だけを感じた。

 

今回、私は本を読んで知った。

 

私は加害者だけでなく、先生に怒っていた。そして、周りの大人にも怒っていた。そして、自分にも怒っていたのだと。

 

でも、この怒りはなんなんだろう?

どうして私はあの事件を「自分事」にしなかったんだろう?

 

哲学カフェの参加者の方が、同じように教室で起った事件(その方のケースは集団による攻撃ではなく、個人間の喧嘩)について話していた。その方の学級会は、先生が当事者だけでなく、その場にいた人たちにもその事件と問題を考えさせたということだった。先生が、子ども達それぞれに、起ったことを「自分事」として考えさせた学級会。

 

私の経験した学級会の何がそんなに不快だったかが、皆さんの発言を聞きながらわかった。

私の学級会は、泣いて児童を責める担任の先生から、ただ一方的に共感を求められていたからだ(少なくとも、私は当時そう感じた)。そこには、加害者も傍観者もただ責められる存在で、被害者のK君の気持ち(存在)はなかった。

 

先生はアンケート用紙を配っていた(アンケートの内容は、ここではとても書けない)。私は、K君の前で児童にアンケートに書かせて、話し合いをさせるなんて「ひどい」と思ったけれど、何も言えなかった。先生のすることだから正しいのだろう、自分の感情がおかしいのだろうとも思っていた。

友人のYちゃんが学級会の後、「あんなことアンケートで書かせて、話し合わせたら、K君はまた辛くなるよ!もっと辛くなるよ!先生おかしいわ!」と激怒していて、「そうだ、だから“ひどい”んだ」と思った。そして、こんな風にすぐに怒りを言葉にできるYちゃんをすごいと思った。そんなYちゃんも学級会では黙っていたし、先生と対決はしなかったけれど。

 

私は、担任の先生に、怒ってほしかったんだ。

加害者達に、

「あなた達のしたことは“犯罪”だ。いじめなんていう軽い言葉で扱うことはできない許されることはない“暴力”なんだ」と。

傍観者に、

「あなた達は“犯罪”を見て、そのままにしていたのです」と。

 

そして、K君を守ってほしかった。

「どんな理由があるにしろ、あなたの受けた暴力は正当化できない。あなたは悪くない」と。

 

 

私はなぜ、K君の言葉を聴かなかったのだろう。K君の事を知ろうとしなかったのだろう。そして、「あなたは悪くない」となぜ言えなかったのだろう。

私が幼かったから…というのは言い訳だろう。

 

この絵本の白のページの最後、子ども達の中に泣いている男の子がいないと指摘した方がいた。

この本の中に泣いている男の子のセリフがないと指摘した方がいた。

 

そうだった。

あのクラスにはK君はいるけどおらず、K君の言葉はなかった(私は聞かなかった)。

 

もうK君に会うことはかなわないし、当時のあんなに仲が良かった友達が今どうしているかもわからない。

 

だけれども、私は、次に同じことが起こった時、目を向け、聴くことができるようになりたい。理不尽に集団からの暴力を受けた人に、「あなたは悪くない」と言えるようになりたい。

 

それが、あの時K君とあのクラスで出会った私の「責任」だと思う。

 

 

哲学カフェの後半に、

「責任」って言葉は重い…と発言している方がいて、思わず頷いた。

 

黒いページに載っている写真…「原子爆弾」や「難民の子ども」、「少女を抱えた米兵」、「油にまみれた水鳥」、「先進国のゴミ捨て場」、「少年兵」に、果たして「私」が責任を持つことができるのか。大きすぎる問題を、どうしたら、「自分事」にできるのか。

 

最後の方に、「責任」を一人で背負ったり、だれかに押し付けるのではなく、

大きなパンをみんなで少しずつちぎるように、自分でできる範囲で責任を持つことはできるのではないか、と発言した方がいた。

 

それまで皆さんの言葉を聴きながら、ノートに「参加」と書いてグルグルしていた私は、その方の発言を耳にした時「そうか!」とパッとイメージが沸いた。

 

その後、“Take part in”という言葉を紹介された方がいて、とても力づけられた。

 

「責任」って重くて、とても担えないと逃げてしまいたくなるけれど、

抱えられない問題(大きなパン)をできる人ができる範囲少しずつちぎっていくことはできる。

できる事から、それぞれのペースで行動することはできるのではないか。

 

「この本の続きの本があれば、子どもと読みたい!」と発言している方がいて、私も同じ気持ちだった。

そして、その続きの本(物語)は自分で、子ども達と一緒に作れるのかもしれないと思った。

 

哲学カフェの対話を経て、この本が私に、「あなたに何ができる?」「あなたはどうしたい?」「どんな一歩が踏み出せる?」と問いかけているように思えた。

 

「大切なことは言葉にできない」と発言している人がいた。

本当にそう思う。

でも、こうして本を通して対話して、「モヤモヤ」や「ひっかかり」をどうにか言葉にしてみると、見えてくる世界がある。他の人の言葉を聴くことで見えてくる風景がある。

「大切なこと」に一歩近づけると感じられる時がある。

 

 

【追記1】

ここで考えきれなかったことにも、心に残る発言がたくさんあった。

「泣いている子どもと発言している子ども達、それは入れ替わる可能性がある」「職場で今まさに起っていること(組織の目標に到達できず泣いている新人の姿に重なる)」「完全な理解はできなくても、共感することはできる」「その子の背景に共感しても、行為には共感できないということがある」「人を追いつめる時は理由を問い詰めている」…等

なかでも、「“Responsibility”は“極限にいる時によい方向のものをとること”だと思う」という発言が頭の中でグルグル…。「よい方向」ってなんだろう…。私にとって「よい方向」?組織にとって「よい方向」?社会にとって「よい方向」?地球にとって…?

 

 

【追記2】

終了後、この哲学対話を隣の部屋で聞いていた息子から、「おかーさん、話が長い!」と注意された…!夫も「話が長くて言いたい事がわからないから、松川さんがどこがポイントか確認してたやん」と…。

ヒィー…反省…。

 

あらためて、ブログで振り返って、松川さんが確認して下さったポイントが、私の「モヤモヤ」のまさに核だったと知りました!

松川さん、対話してくださったみなさんに感謝です。

 

伝わる言葉を話せるように、少しずつガンバロウ…、私。