今日はスロウな本屋さんの「えほん哲学カフェ」に参加した。ファシリテーターは松川えりさん。
おもしろかったー!絵本を2時間ゆっくり味わいました。
振り返ると、私は「てつがくカフェ」に出会って、3年少し。
以前は生活の中でモヤモヤが出てくると、モヤモヤを消そうと躍起になっていたり、なんとかそれらしい答えを見つけて自分を納得させたりしていたけれど、
「てつがくカフェ」に時々参加するようになって、
モヤモヤ掘ってくと面白い、人によってモヤモヤポイントって全然違うんだって新鮮な発見があって、
モヤモヤを楽しめるようになった。
「モヤモヤ」を一旦突き放して眺めてみたり、「モヤモヤ」の中に入り込んで分類してみたり、「モヤモヤ」をかき分けて新しい景色を見つけたり、そういう方法を「てつがくカフェ」の対話を通して知ることができたのは、うれしい。
「対話」ってやっぱりいいな。一人でじっくり考えることも大切だけど、一人だと「モヤモヤ」がグルグルして、出口や光が見えなくて苦しくなってしまうこともあるから。複数で「対話」をすると、思わぬところに絡んだ糸をほぐす手がかりが見つかることがある。新しい景色を見ることができる。対話しながら「ハイキング」する感じ(たしか…以前、松川さんが「てつがくカフェ」を「ハイキング」に例えて説明して下さったと思う)。
順調に進んでるように感じる時もあれば、話しながら自分が何を言いたいか、どこに行きたいのかわからなくなったり、みんなでグルグル回って一緒に穴に入りこんでいるように感じることもある。そんな時は、ファシリテーターの松川さんやメンバーの誰かの言葉をきっかけに、「ちょっと待って、今私どこにいる?」「この道とこの道と、私どっちに行きたいんだろう?」と立ち止まって、発言や対話を見直したり整理できるので、安心して迷子も楽しむことができる。
「てつがくカフェ」は、その日限りのメンバーとともに、モヤモヤの森の中で道を見つけながら、自分やメンバーに問いかけながら私にとっての「こたえ」を見つけに歩く時間。
そんななかで「あぁ、そうだ、これだ」「これが〈ほんとうのこと〉なんじゃないか?」って思える光が時々見える。
そしていつも、「こたえ」と思ったものが揺らいで、また新しい問い(モヤモヤ)が浮かんでくる。
とりわけ、「絵本てつがくカフェ」の楽しさは、五感を刺激しながら考えることができることかなぁと思う。
五感の中でも視覚・聴覚・触覚。(味覚は、絵本の中のお菓子を再現したり、嗅覚は新しい本の匂いに贅沢さを感じたり、古い本の匂いに懐かしさを感じたり…というのがあるかな…。でも、てつがくカフェでその辺り(味覚・嗅覚)を掘ったことはないかなぁ)
絵が表していること、読み聞かせを聞いて感じること、ページをめくる手の感覚…。そういうところもモヤモヤを解く材料になるし、なんといっても絵を眺めると楽しくて、コトバだけで考えているときより煮詰まりにくい。
今回の絵本は、『みんな たいぽ』(マヒトゥ・ザ・ピーポー文・荒井良二絵)。
(以下ネタバレあります)
昨日スロウな本屋さんで受け取って、自宅で読んでみて、出た感想は「なんじゃこりゃ?!」「かわいいんだけどなんかこわい」「“たいほ”じゃなくて“たいぽ”ってなぜ?響きがなんかかわいい。でもちょっと茶化されてる感じ?」「罪のない人・ものは何ひとつないんだなぁ(罪って何?)」「最後の“きゅうたい”は何だろう?(世界の終わり?始まり?)」。
小6の息子は「なんだこんな本!」「みんな逮捕されて、最後溶けるってなんやねん!」と怒っていた。
てつがくカフェで皆さんの話を聞いて、これって、ハチャメチャな世界の話だと思ってたけど、「え?これって今・ここの話?」ってゾッとした。
「たいぽ」って表現を「タイプミス」や「皮肉」って表現されている方がいた。これって「私や私たちの社会の問題?」って思って読むと、恐ろしさにドキリとする。
…何がどうしてこんなにこじれておおごとになっちゃったのかな?
罪を犯した人の話を聞かず、一方的に逮捕する“ぼく”。
罪を犯した経緯を確認せずに、取りあえず逮捕する“ぼく”。
言われるままに「ことば」「もじ」「いろ」「おと」を逮捕する“ぼく”。
自然災害(たいふう)も逮捕する“ぼく”。
最後に人間みんな逮捕して、自分も牢屋に入って、鍵を飲み込む“ぼく”。
“ぼく”は何?
おまわりさん(ぼく)に「共感した」と話した人がいた。
私はおまわりさんは職務に忠実で、最後は自分も牢屋に入っちゃって、悪い人ではないんだろうなぁ…なんて思った。
「おまわりさんがどんどん厳しく怖い顔になっていく」と話した人もいた。
ほんとだ…。
厳しくて怖くて、なんか苦しそうな顔。辛そう。
鍵を飲み込んだ時の顔はなんだかほっとしているようにも見える。
逮捕された「ことば」「文字」は、言論、SNS上の傷つける言葉、「音」は、保育園や公園のこども達の声(騒音?)、「色」は肌の色、服の色…?
瞳に炎を映したライオンは芸術家?
読めば読むほど、これは私たちの今の姿なのでは…?と思える。
「何を私達は取り締まろうとしているのか?」と問いかけた方がいて、その発言が私の中でグルグル回った。
最後「おたがいがおたがいのちかくで いままで したことのないくらい こえをききました」というところ、
この「声」って一人一人の「本音」だったり「こころの叫び」だったりするのかな、それをお互いが「話して」「聴く」ことで、安心して眠ることができたのかな。
おまわりさん(ぼく)も、そこでたいほした人一人一人の声を聴いたのかな。
そして、ぼくの声も誰かに聴いてもらえたのだろうか。
ここではじめて、ほんとうのコミュニケーションができたのかな…。
私だったら、最後の“きゅうたい”は「きぼう」と呼ぶだろう。
と、思ったところで、
「とけちゃう、溶け合うのはよくない」と発言された人がいて、ハッとした。
そうだ。
誰かの言葉、誰かの声はその人のものでしかなく、
だからこそ、その人がその人であるってことなんじゃないか。
それが溶け合ったら、
その人がその人であることがなくなってしまう。
それはアカン。
溶け合った先の最後の“きゅうたい”を「きぼう」と呼ぶことの暴力性を突き付けられた気がした。
そして、息子が最初この本を読んだ時に怒った理由がわかるような気がした。
明るくて、メチャクチャで、ナンセンスで、きれいで、かわいくて、笑っちゃうんだけど、
怖くて、ひどい。
荒唐無稽なようで、リアル。
いい本だ…。
【追記】
・球体は閉じてるという発言にハッとする。
⇒閉じてる…、確かに。自由でいることって困難なんだ
⇒でも自由でいたい
⇒自由って何?
・これは未来の話?みんなが溶け合わないために何ができるんだろう。
・世界中の武器を吸い上げて〈たいほ〉したらいいのに…という発言に同意。
・今回、対話の中の沈黙がとても心地よかったなぁ。