本と珈琲、ときどきチョコレート

観たり、聴いたり、心が動いたり…日々の記録

えほん哲学カフェ『わたしのせいじゃない―せきにんについて―』

10月2日(土)スロウな本屋さんの「えほん哲学カフェ」に参加した。ファシリテーターは松川えりさん。

 

絵本を通した哲学対話は、毎回、一人で読んだ時とは違う発見がたくさんある。みんなで「絵本をじっくり味わう」時間。絵本を読んで思ったことや浮かんだ問い、自分の変化を話して、確認する。そして、他の人と感じ方が重なると思ったり、「そんな見方もあるのか!」と驚いたり。

 

対話を通して、一冊の本が自分にとってかけがえのないものになっていく。

 

今回の絵本は、『わたしのせいじゃない―せきにんについて―』(レイフ・クリスチャンソン文・にもんじまさあき訳・ディック・ステンベリ絵)。

この絵本のテーマは重い。実は、今回の哲学カフェには、ワクワク参加する感じではなかった。でも、参加して良かった。対話の最後に「あと一歩前に進もう」と思えた。光が見えた感じがした。

 

私がこの本を読んで強烈にリンクしたのは、小学六年生の頃に教室で起きた事件。ずっと心の中に澱のように溜まっている出来事。忘れたと思っていても、些細なきっかけでその事件を思い出し、加害者への怒りがムクムクと湧いて止まらなくなる。

 

妊娠し、お腹の中の子どもが男の子だとわかった時、私はしばらく沈み込んでしまった。

その事件を思い出して、息子にも同じことが起こるのではないかと恐れたからだ。

その恐れは、息子が成長してからも繰り返しやって来て、その度に私は不安に押しつぶされそうになった。

 

対話の中で皆さんの言葉を聞いて、気づいた。

その事件が30年以上私の中で足踏みし続けているのは、

私がその事件を「自分事」として捉えていなかったからだ。

 

まさに、絵本で最初に登場した女の子の、

「学校のやすみじかんに あったことだけど わたしのせいじゃないわ」

というセリフを、私はずっと心の中で繰り返していた。

この子は、私だ。

 

加害者達を「許さない」と思うことで、「自分事」として向き合うことから逃げていた。

 

教室でK君の涙を見た時、もうそれは、「自分事」になったはずなのに。

 

それをみとめることができなかった。

K君とは話した記憶が全くない。

嫌いでも好きでもない、K君。

 

私は、K君がお母さんに叩かれているところを見たことがあった。偶然家の前を通りがかった時見たのだ。

 

それを誰にも言わなかった。

 

ドラマのこと、漫画のこと、サイクリングのこと、洋服のこと、演劇のこと、バスケットボールのこと、もっとワクワクする楽しいことがたくさんあったから。

 

そう言い訳して、誰にも言わなかった11歳の自分を思い出して、胸がキリキリと痛む。

どうして言わなかったんだろう。

「関係ないと思ったから?」

「関わりたくないと思ったから?」

 

優等生のA君のお母さんが教室での事件を先生に問題提起し、先生が学級会を開いて泣きながら私達を責めて(「私、(保護者達に)責められたんだよ!」と泣いていた)、事件を振り返ってアンケートに書かせたりした。私は、なんだかよくわからない、嫌な空気だけを感じた。

 

今回、私は本を読んで知った。

 

私は加害者だけでなく、先生に怒っていた。そして、周りの大人にも怒っていた。そして、自分にも怒っていたのだと。

 

でも、この怒りはなんなんだろう?

どうして私はあの事件を「自分事」にしなかったんだろう?

 

哲学カフェの参加者の方が、同じように教室で起った事件(その方のケースは集団による攻撃ではなく、個人間の喧嘩)について話していた。その方の学級会は、先生が当事者だけでなく、その場にいた人たちにもその事件と問題を考えさせたということだった。先生が、子ども達それぞれに、起ったことを「自分事」として考えさせた学級会。

 

私の経験した学級会の何がそんなに不快だったかが、皆さんの発言を聞きながらわかった。

私の学級会は、泣いて児童を責める担任の先生から、ただ一方的に共感を求められていたからだ(少なくとも、私は当時そう感じた)。そこには、加害者も傍観者もただ責められる存在で、被害者のK君の気持ち(存在)はなかった。

 

先生はアンケート用紙を配っていた(アンケートの内容は、ここではとても書けない)。私は、K君の前で児童にアンケートに書かせて、話し合いをさせるなんて「ひどい」と思ったけれど、何も言えなかった。先生のすることだから正しいのだろう、自分の感情がおかしいのだろうとも思っていた。

友人のYちゃんが学級会の後、「あんなことアンケートで書かせて、話し合わせたら、K君はまた辛くなるよ!もっと辛くなるよ!先生おかしいわ!」と激怒していて、「そうだ、だから“ひどい”んだ」と思った。そして、こんな風にすぐに怒りを言葉にできるYちゃんをすごいと思った。そんなYちゃんも学級会では黙っていたし、先生と対決はしなかったけれど。

 

私は、担任の先生に、怒ってほしかったんだ。

加害者達に、

「あなた達のしたことは“犯罪”だ。いじめなんていう軽い言葉で扱うことはできない許されることはない“暴力”なんだ」と。

傍観者に、

「あなた達は“犯罪”を見て、そのままにしていたのです」と。

 

そして、K君を守ってほしかった。

「どんな理由があるにしろ、あなたの受けた暴力は正当化できない。あなたは悪くない」と。

 

 

私はなぜ、K君の言葉を聴かなかったのだろう。K君の事を知ろうとしなかったのだろう。そして、「あなたは悪くない」となぜ言えなかったのだろう。

私が幼かったから…というのは言い訳だろう。

 

この絵本の白のページの最後、子ども達の中に泣いている男の子がいないと指摘した方がいた。

この本の中に泣いている男の子のセリフがないと指摘した方がいた。

 

そうだった。

あのクラスにはK君はいるけどおらず、K君の言葉はなかった(私は聞かなかった)。

 

もうK君に会うことはかなわないし、当時のあんなに仲が良かった友達が今どうしているかもわからない。

 

だけれども、私は、次に同じことが起こった時、目を向け、聴くことができるようになりたい。理不尽に集団からの暴力を受けた人に、「あなたは悪くない」と言えるようになりたい。

 

それが、あの時K君とあのクラスで出会った私の「責任」だと思う。

 

 

哲学カフェの後半に、

「責任」って言葉は重い…と発言している方がいて、思わず頷いた。

 

黒いページに載っている写真…「原子爆弾」や「難民の子ども」、「少女を抱えた米兵」、「油にまみれた水鳥」、「先進国のゴミ捨て場」、「少年兵」に、果たして「私」が責任を持つことができるのか。大きすぎる問題を、どうしたら、「自分事」にできるのか。

 

最後の方に、「責任」を一人で背負ったり、だれかに押し付けるのではなく、

大きなパンをみんなで少しずつちぎるように、自分でできる範囲で責任を持つことはできるのではないか、と発言した方がいた。

 

それまで皆さんの言葉を聴きながら、ノートに「参加」と書いてグルグルしていた私は、その方の発言を耳にした時「そうか!」とパッとイメージが沸いた。

 

その後、“Take part in”という言葉を紹介された方がいて、とても力づけられた。

 

「責任」って重くて、とても担えないと逃げてしまいたくなるけれど、

抱えられない問題(大きなパン)をできる人ができる範囲少しずつちぎっていくことはできる。

できる事から、それぞれのペースで行動することはできるのではないか。

 

「この本の続きの本があれば、子どもと読みたい!」と発言している方がいて、私も同じ気持ちだった。

そして、その続きの本(物語)は自分で、子ども達と一緒に作れるのかもしれないと思った。

 

哲学カフェの対話を経て、この本が私に、「あなたに何ができる?」「あなたはどうしたい?」「どんな一歩が踏み出せる?」と問いかけているように思えた。

 

「大切なことは言葉にできない」と発言している人がいた。

本当にそう思う。

でも、こうして本を通して対話して、「モヤモヤ」や「ひっかかり」をどうにか言葉にしてみると、見えてくる世界がある。他の人の言葉を聴くことで見えてくる風景がある。

「大切なこと」に一歩近づけると感じられる時がある。

 

 

【追記1】

ここで考えきれなかったことにも、心に残る発言がたくさんあった。

「泣いている子どもと発言している子ども達、それは入れ替わる可能性がある」「職場で今まさに起っていること(組織の目標に到達できず泣いている新人の姿に重なる)」「完全な理解はできなくても、共感することはできる」「その子の背景に共感しても、行為には共感できないということがある」「人を追いつめる時は理由を問い詰めている」…等

なかでも、「“Responsibility”は“極限にいる時によい方向のものをとること”だと思う」という発言が頭の中でグルグル…。「よい方向」ってなんだろう…。私にとって「よい方向」?組織にとって「よい方向」?社会にとって「よい方向」?地球にとって…?

 

 

【追記2】

終了後、この哲学対話を隣の部屋で聞いていた息子から、「おかーさん、話が長い!」と注意された…!夫も「話が長くて言いたい事がわからないから、松川さんがどこがポイントか確認してたやん」と…。

ヒィー…反省…。

 

あらためて、ブログで振り返って、松川さんが確認して下さったポイントが、私の「モヤモヤ」のまさに核だったと知りました!

松川さん、対話してくださったみなさんに感謝です。

 

伝わる言葉を話せるように、少しずつガンバロウ…、私。