ヨノナカ実習室さんの対話する哲学教室「“美”は事実か趣味か」に参加しました。
講師は哲学プラクテショナ―で「てつがくやさん」の松川えりさん。
この機会に『中学生からの対話する哲学教室』(シャロン・ケイ・ポール・トムソン著、河野哲也監訳)を購入し、第二章を読みました。松川さんはこの本の訳者の一人で、岡山を拠点に、哲学カフェや対話ワークショップをされています。
私が初めて松川さんの哲学対話に参加したのは、2020年1月の宝湯という銭湯(!)での「災害の近さと遠さ」をテーマにしたものでした(銭湯といっても、二階の集会室?で、お風呂に入りながらではないですよ)。その後は、新型コロナの流行もあり、全てオンラインで、「スロウな本屋」さんのえほん哲学カフェや、こども哲学・おとな哲学「アーダコーダ」さんの読書会等に参加しています。
今回、ヨノナカ実習室のスミさんの企画で松川さんが講師なら、これはぜひとも!参加したい!と滑り込みで申し込みました。
三時間、あっという間でした。
前半は2章のティーンズ二人の対話を読み、参加者それぞれが二人の対話から感じたこと、「美」「美しさ」について対話し、後半はソクラテスとヒュームの思想を学び、自分がどちらの思想に近いか、あらためて、「美」について思うこと、対話を経てモヤモヤしているところを参加者で対話…。
終了時間の4時にはもうモヤモヤ全開で、今もモヤモヤ考えています。
掘って掘って、拡げて拡げて、哲学対話ってなんて豊かな時間なんだろう。
そして、対話の前と後では今まで見ていた景色が少し変わる。
聞いて、考えて、話して、聞いて、また考える…。インプット、アウトプット、考えを混ぜ混ぜ…何か私にとっての「本当のこと」に近づけそうで、すり抜ける…。まとまりのない私の言葉の散らかりを、松川さんや参加者の皆さんが拾ってくれて、繋がっていく…。参加者の皆さんの発言に共感したり、新しい視点に気づいたり…。
哲学対話って、本当に面白いな、苦しいんだけど、面白いって思います。
対話によって他者と出会い、自分を発見して、他者と繋がっていく感じ。
「違い」を尊重して楽しめる場所。
【今の私のモヤモヤ】
○美しさは客観的な事実?それとも主観的な感覚?
⇒主観的な感覚だと思う
なぜなら、人、時、環境により「美」は変化すると思うから。
目の前に見えているものがたとえ汚くても(破れかぶれのシュート、ドブネスミのように)人はそこに「物語」を見て美しいと思うから。
華道や茶道、弓道の「型」、フィギュアスケートの高得点の「技」、黄金比、伝統工芸でさえも、それを美しいと決められたもの、美しいと教えられたから美しいとしているのかもしれない(と感じる)絶対美しいものとは言えないのではないか。
(でも、やっぱり磨かれて残ってきたものは美しいなぁ)
名画も、宗教画も、やはりそれに美しさが事実として「ある」とは言えないのではないか。
アーティストはそれぞれの美を追求している存在で、やはり、それはそれぞれの主観なのではないか。その主観の表現がそれを見る人聞く人触れる人の感情を動かす…のではないか。
確かなのは「“それを美しいと感じている”自分」
…だと思う。
○正しさは客観的なもの?主観的なもの?
⇒主観だと思うが、人が社会で生きている存在であるかぎり、「冒せないもの」「侵してはいけないもの」があるのではないか。
しかし、「正しさ」は危険。そして、美しいものを正しいと思うことは危険に感じる。
「美」は「芸術」そして「芸術」は人を自由にするものの一つと思う。そこに「正しさ」はなくてもいい…
「正しさ」っていったいなんだろう…。
「自由」とは…?
○「客観」って何?私は「客観的」になり得ることができる?
(今日はここまで…)
「“美”は事実が趣味か?」という問いを巡って、調和、型、技、物語、感動、芸術、信仰…と私の中の問い(モヤモヤ)が拡がったとても貴重な時間でした。
そうだ!「年を重ねたからこそ、美しいと感じることができるものがある」という気づきは、なんかすごく嬉しかったなぁ。最近「老い」を感じて凹みがちだったから。