今日は対話する哲学教室「生きる意味とはなにか」(ヨノナカ実習室さん)に参加しました。
ファシリテーターは松川えりさん。
今回のテーマは、「生きる意味がある」ということを前提にした問いなんだなぁ。
(これ、参加する前に私が感じてたモヤモヤを言葉にして下さった方がいてうれしかった)
生きることに意味ってあるんだろうか。
テキストの姉妹の会話を読むと、
妹は、
“生きるとは演じること”
“「ほんとうの自分」は見つけるもの”
って思っている、
姉は、
“生きるとは人生を自分でつくりあげること”
“「ほんとうの自分」は自分でなっていくもの”
って思っている
ようだ。
と、すれば、私は妹に近いかな。
家庭で、職場で、地域で、色んな場面に合わせて自分を演じているから。
(でも、姉のように考えて行動している時もある)
では、「ほんとうの自分」って何?
「自分を抑えず、自分自身のままでいて、そのことが周りにみとめられていること」って私は思うけれど。
どうだろう。
実は「ほんとうの自分」という表現に抵抗感もある。
それは、私がうまくいかない時の言い訳に、
「本当の私はこうじゃない」とか「○○のせいでうまくいかなかった」「今は○○があるから全力じゃない、ほんとうの自分じゃない」って心の中でつい誰かや何かのせいにしてるから。
そういう自分が嫌で、
そして、心の底ではわかってる。
「ほんとうの自分」を探すんじゃなくて、「今の自分」と向き合うことが前に進むために大切だということを。
そもそも「ほんとうの自分」なんているの?
皆さんの話を聞きながら、色んな側面から「ほんとうの自分」を見てみる。
・演じている自分も「ほんとうの自分」。
・環境が変わると「ほんとうの自分」が変わる。
・こどもの頃は自分がわからなかったけど、年を重ねて自分を知って「ほんとうの自分」になっていく。
・「自分」はマトリョーシカ人形のように何層にもなっていて、その中心に、ズルい汚い自分(ほんとうの自分?)がいる。
・・・おもしろい。
「自分とは何か?」という問いをもっと色んな側面から掘ってみたいな。
そして、「生きる意味とは何か?」
そもそも、「生きることに意味はあるの?」
心に残っている皆さんの言葉…
「望んでいないけれど、生まれてきて、生きている」
「生かされてるから生きている」
「生きる意味がないなら生きていても仕方ない」
「生きる意味を作って楽しみたい」
「意味というより目標・目的があると生きていることがおもしろくなる」
いくつもの言葉から、
「生きる」っていうことの色んな側面が見えてくる。
私は生きることに“意味”はなくて、
というより、
そこにはただ“美しさ”があるって思うんだよなぁ。
(あ、だからこのシリーズの「美」の章がいつもワクワクするのか)
生きることは自分の思う美しさを追求することなのかなぁ。
本当は、どんな人も生きているだけで美しいんだって言いたい。
キレイゴトかな。
モヤモヤモヤモヤ・・・
うまく言葉にできない。
よくわからなくなってきました…。
今日のモヤモヤ振り返りはここまでにします。
今日のモヤモヤをきっかけに、サルトルの『実存主義とは何か』を読んでみようと思います(『100分de名著』からね…!)。
【追記(2023.6.26.)】
なんだか対話の後のモヤモヤが収まらなくて、なんでかなぁと、もう一度振り返ってみた。
対話の中で、
アクィナスの「人生には〈客観的価値〉がある」(人がどう感じるかとは関係なく、人類の幸福に貢献したという価値をもつ)
と、
サルトルの「人生の〈主観的価値〉を重視」(本人がそのことに意義を見出せなければ意味がない)
のどちらに自分の考えが近いか?
という話になった時、
私はアクィナスかなぁ…。でも神の存在には懐疑的だけど…。
って思い、発言がグチャグチャしてしまった。
それは、どんな人でも、意図しても意図しなくても、誰かの幸福に貢献しているっていう実感があるからなんだけど。
だから、その人がたとえ生きる意味を見出せなくても、その人には「価値がある」って言いたかったんだけど。
なんだか、すごく見当違いのことを言ってしまったと反省している。
(これは、夫に対話の流れを話してみて気づけたことでもある)
人がみんな価値を持つということと、それを〈自分〉がどう思うか(どう捉えるか)ということは違う。
私は、どんな人でも命にしたがって価値があると言ったけれど、
それとともに、〈ほんとうの自分〉を
「自分を抑えず、自分自身のままでいて、そのことが周りにみとめられること」
と話していた。
これって別の話だ。
私の中で、〈周りにみとめられる〉、〈受け入れられる〉ってことが生きる意味に繋がっている。
参加者の方が「仕事でみとめられると生きる意味を感じる」と話されていたけれど、「そうだよなぁ」って思う。
みとめられること、受け入れられる場って大切だ。それは、家庭でも、職場でも、地域でも。そして、たとえ仕事でうまくいかなくても、家族に受け入れられたり、友人がみとめてくれたり、そういうことで乗り切れていることってたくさんある。
20代の八方ふさがりの時、クリスチャンの友人が「大丈夫。神はあっちゃんを愛してるよ」って話した時、私はクリスチャンではないけれど、強い気持ちになって前に進めた。
でも、一方で、
(誰かにみとめられなくてもいい、みとめられる必要はない、)
「自分が意義を見出してるのか?」
って問いかける声も、この対話を経て聴こえてくる。
不安はなくならないけれど、
すぐにモヤモヤモヤモヤするけれど、
ふらつきながらも、
自分の人生を自分の足で歩いていこう。