おもしろかった。今、読めて良かった!
「教育」についてモヤモヤしている方に、おすすめの本です。
読みながら人物達が浮かび上がって動き出して、まるでその時代時代に私がそこにいて、一つ一つのシーンを観ているようだった。
読書しながら、登場人物達とともに怒涛の体験をして、今読み終えて本を閉じて、ほぅっと一息ついています。
(以下ネタバレを含む感想です)
「自分の頭で考えるのよ」
読後も千明の言葉が私の中で響いてる。
この本では、戦中・戦後から現在までの教育の流れが4世代の登場人物とともに描かれている。
満ちることのない月。
誰もがそんな月なのかなと思う。
こどもの頃、進学塾や補習塾がたくさん近所にあった。
父は「塾なんか行かなくていい。学校の勉強がちゃんとできていたらええんや」と言っていた。「塾なんか」という言葉は今も心に残ってる。中学二年生くらいで、自分で塾のチラシを集めて親に見せて、「塾に行かせてください」と頼んで行かせてもらった。
そんな私が親になり、小学生の子どもに私から「塾に行ってみる?」と聞いている。
教育基本法の変遷と塾の関わり、教育に関わる人の想い、翻弄されるこども達。本を読みながら、日本の教育の大きな流れに飲まれ、一体この流れはどこに向かっていくのか…とクラクラした。そんな中、一郎やその周りの人たちの地に足をつけた一歩は希望だと思った。
そして、どんな時代に生きても、「自分の頭で考える」ということが大切なんだと思う。
知らず知らずに千明から私も影響を受けてるみたい。
【印象に残ったところ】
・吾郎の持つ「待つ力」
・(千明の言葉)「正義や美徳は時代の波にさらわれ、ほかの何ものかに置きかえられたとしても、知力は誰にも奪えない。(略)十分な知識さえ授けておけば、いつかまた物騒な時代が訪れたときにも、何が義であり何が不義なのか、子どもたちは自分の頭で判断することができる」(p.17)
・(矢津の言葉)「新しい道はいつだって、歩いてみるまで正体が知れないものですよ」(p.23)
・(八千代塾で消しゴム禁止の理由を問われた時の吾郎の言葉)「誤答が消えたら、子どもたちは弱点を忘れてしまう。自分がどこでつまずいたのか省みるすべがなくなる。実際、消しゴムを多用する生徒ほど似たような問題に何度もひっかかるものです」(p.52)
・(証券会社から塾に転職した勝見の想い)どうせ一度の人生ならば、金より価値のある何かのために自分を使いたい(p.71)
・(教え子の孝一に塾の教員を頼んだ時の吾郎の言葉)「君なら大丈夫だ。君は最初からできる生徒じゃなくて、できるまでやりぬく子だったからね」(p.81)
・(公立小学校での教科書の無償配布が始まったことについての記述)世の親たちに歓迎されたその施策の裏で、時を同じくして、学校教員の教科書を選ぶ権利が奪われ、教育委員会の手に渡っていた。教育現場の自由がまた一つ制限されたのである(p.87)
・(頼子の言葉)「どんな子であれ、親がすべきは一つよ。人生は生きる価値があるってことを、自分の人生をもって教えるだけ」(p.153)
・(千明の父の言葉)「千明、戦争は集団の狂気だ。ぼくらは狂った時代にいる。あてになるのは自分自身の冷静な知性だけだが、今の教育は子どもたちからそれをとりあげようとしている。考える力を奪い、国の随意にあやつれる兵隊ロボットを量産するための教育だ。みすみす自分を明け渡すんじゃないぞ、千明。考えろ」(p.176)
・(千明の言葉)「冷夏の影響で野菜の値段が高騰している、とラジオで報じられたとするでしょう。敗戦のあと、私が中学生だったころは、そうした報道も学校での授業にとりこまれて、報じられた内容をどう受け止めるか、あるいはどう疑うか、子ども同士で徹底的に議論させるような教育が行われていたのよ」(p.216)
・(蕗子の言葉)「学びの場を選べない子どもたちによりそって、ともに学びあう。定められた条件の中で、精一杯、自分にできることをする。それが、私の本望です」(p.221)
・(蘭の言葉)「子どもっていうのは、顧客であって、顧客じゃない。だって入退会を決めるのも、お金を払っているのも、彼らじゃなくて保護者だから。塾に通ってくる子どもたち自身は、いつもどこまでも無力なんだよね」(p.328)
・家計に余裕がある子とない子。その溝を深めた責任の一部はゆとり教育にもあるのではないか(p.368)
・祖母の口癖であった「自分の頭で考える」力も、言葉をあやつる能力と密接にかかわっている気がする。直哉は「思い」が足りないのではなく、「思いを形にする力」に欠けているのではないか。だとしたら、どうすればその欠落を満たしてやれる?(p.419)
・教育は、子どもをコントロールするためにあるんじゃない。不条理に抗う力、たやすくコントロールされないための力を授けるためにあるんだ―。(p.457)