本と珈琲、ときどきチョコレート

観たり、聴いたり、心が動いたり…日々の記録

「好き」を大切に、動く

「社会貢献がしたい!」と私が言ったら、

夫が、

「別に社会貢献したい!なんて思わんと、好きなこと自由にしたらええやん」と言った。

 

「社会貢献したい!って思うことはおかしいん?」と聞くと、

「『社会貢献したいー!』って思いながら歌う歌手の歌聴きたいか?

『歌好きやー』って思いながら歌ってる人の歌の方がええやん。

『社会貢献したいー!』ってパン作ってる人のパン買いたいか?

『パン作るの好きやー』って思いながらパン作ってる人のパンの方が美味しそうやん。

好きなこと自由にやったらええやん。

社会貢献大事って考え、学校教育の賜物なんかなー。経済活動に都合がいいもんなー」

と言う。

 

好きなことを自由に…

そうなんだけど、

私はやっぱり、労働して社会に貢献しないと、

好きなことを自由にすることに罪悪感を持ってしまう。

 

この罪悪感は何だ?

 

罪悪感の正体はわからないし、

そして、そんな感情持つ必要ないのかもしれないけれど、

やっぱり苦しくて。

 

引っ越しも落ち着いたし、そろそろ仕事を見つけよう…と思い、市のキャリアカウンセリングを申し込んだ。

 

「今日はキャリアカウンセリングを受けに行ってくる。自分が何をしたいか、何ができるか、専門職の人の力を借りて整理してみたいねん」と私が言うと、

「まぁ考えすぎずにやってみたいなぁって思うことやってみて、合わなかったらやめたらええし、

合ってたら続けたらええやん」と夫は言った。

 

「簡単にやめることはできへんよ!この年齢やし!」と言うと、

「そんなに堅苦しく考えなくてええんちゃう?」と言いながら、夫は仕事部屋に行ってしまった。

 

キャリアカウンセリングは気づいたらなんと2時間近く経過していた。

今まで自分がしてきた仕事、生活スタイルから、過去のことや生きづらさ、何がしたいのか、人生で何を大切にしているのかが掘り下げられた。

 

たくさんのモヤモヤが整理できて、次に進む方向が見えて、心からカウンセリングを受けて良かったと思った。

無料でこんな時間が持てるなんて。ありがたいことだ。

 

でも、なんとなく胸につかえていることがある。

言い訳が多かったように思うからだ。

「前に進めないのは○○だからだと思うんです」

とか、

「不安なのは○○だからだと思うんです」

とカウンセラーに言いながら、

とても自分を胡麻化しているような気になったからだ。

 

方向性が決められて、有意義な時間を過ごすことができたのに、なんだか少し後味が悪く、とても疲れてしまった。

 

家に帰ってご飯を食べて、布団に倒れこんだ。

推しの動画を見て、推しの幸せを祈って、自分の心を癒した。

少し疲労が回復してきて、

吸い寄せられるように、10年前に読んだ『嫌われる勇気』(岸見一郎、古賀史健/著、ダイヤモンド社)を開いた。

 

アドラー心理学では、過去の「原因」ではなく、いまの「目的」を考えます。(略)「不安だから外に出られない」のではありません。順番は逆で「外に出たくないから、不安という感情を作り出している」と考えるのです。(p.27)”

 

…「それな!!!」

 

友人と話したら、「色んな仕事するってなかなか楽しいよ。考えすぎないで踏み出してみたら?」と背中を押してくれた。

 

先月のフラワー読書会でかけて頂いた「何かを手放したら何かが入ってくる」という言葉がスッと私の中に入ってきた。

 

明日から新しい仕事が始まる。アラフィフで新しい分野の挑戦。

ずっとこどもの頃からしたかったこと、一度挫折したけれど、四半世紀経ってもう一度その場で働けるって不思議な感じもする。

社会貢献したいからじゃなくて、好きだから選んだ場。

良いことばかりじゃないだろう、でもそれも含めて、ワクワクしている。

 

『戦争は、』

再読している又吉直樹さんの『火花』に、「お前の言葉で、今日見たことが生きてるうちに書けよ」というセリフがあって、ドキッとした。

そうだ。

見たこと聞いたこと、考えたことが私の中で生きてるうちに書かなければ。

色褪せる前に。

 

6月9日、スロウな本屋さんの「絵本てつがくカフェ」に参加した(ナビゲーターは松川えりさん)。本は『戦争は、』(ジョゼ・ジョルジェ・レトリア/文、アンドレ・レトリア/文、木下眞穂/訳)。ポルトガルの独裁体制に抗した文学者の父ジョゼとその息子アンドレの合作だ。

 

(以下ネタバレを含む感想です)

 

 

この本を読みながら、自分が「カラス」の視点で戦争を見ているようで、その一方で、絵の中のカラスが時に戦争そのものになっているように、私自身が戦争そのものになっていく感じがした。俯瞰しているようで巻き込まれていく感覚。

そして、私たちの中に入り込み増殖してく「得体の知れないもの」、これは何?日常生活の中にある「痛み」や「不安」、「抑圧」?

 

頁を閉じて、この本はおそらく戦争の本質が描かれている、と思った。

戦争は突然舞い降りてくるのではなく、日常生活の中で増殖され、人々の「柔らかな夢に入り込む」。

 

一つ一つの絵や言葉を、皆さんはどんな風に受け取り思考を巡らせるのだろう…と、読後からずっと、てつがくカフェが待ち遠しかった。

このどうしようもない世界、こどもに見せたくない世界を創っている大人の一人である私はどうしたら良いのだろうか、対話を通して一歩踏み出せる力もほしかった。

 

てつがくカフェ参加者の皆さんの言葉や問いかけの一つ一つが心に響き、発見があった。

 

なかでも心に引っかかっているのは、

「戦争は、物語を語れたことがない」…これはどういうことだろう?との問いかけだ。

 

今、このブログを書きながらふと思ったのは、「物語」には“ストーリー”と“ナラティブ”があり、「戦争は、物語を語れたことがない」というのは、“ナラティブ”がなくなるということじゃないか。

(原書では「物語」のことをどう表現されているのだろう、気になる)

 

“ストーリーは物語の筋書きや内容を指す。主人公や登場人物を中心に起承転結が展開されるため、聞き手はもちろん語り手も介在しない。一方ナラティブは、語り手自身が紡いでいく物語とされている。主人公は語り手となる私たち自身であり、物語は変化し続け、終わりが存在しない(ELEMNIST https://eleminist.com/article/788)より引用)”

 

「戦争は、人びとを悲しませ、押しつぶし、黙らせる」

「戦争は、沈黙だ」

 

戦場で亡くなった人たち、空襲でころされた人たち、沖縄戦被爆者…、大切な人を亡くした無数の人びと…、

戦争が近づき、戦争が覆うと、一人一人の大切なその人だけの「物語」は語られず、国のために命を落とすという「美しい」ストーリーに組み込まれてしまう。個人の思い、悲しみは押しつぶされ、一つの理念、価値観に集約されてしまう。

 

その人それぞれの「物語を語れない」ということは、戦時下でなくても起こりうることだ。

強者が弱者の声を聴かず踏みつけること、

マイノリティがマジョリティの声を否定すること、

こどもに一つの価値観を押し付けること、

 

今、ここでも、誰かが誰かの物語を封じている。

私だってそうだ。

息子の言葉を聞かずに、自分の価値観を押し付けている。

(あ、だから、思春期の反抗って大事なことなのか)

 

日常と戦争は地続きで、そして、一度戦争が始まってしまうと、ものすごい勢いで進んでいく。

 

だから、私は、この日常の中で、個人の物語を語らせない力に敏感になり、抵抗する、と決めた。

 

この決意が、ウクライナやガザ、ロシアやイスラエルの現状に繋がるのかわからない。

 

でも、私の好きだった人がかつて教えてくれたルターが遺した希望の言葉を忘れずにいたいし、そう生きたい。

「明日世界が終わるとしても、わたしは今日、林檎の木を植える」

 

 

なんだか支離滅裂な文章になってしまった。

本や皆さんの話から、もっと色々感じたり、考えたんだけど、今日はここまで…。

 

以下は、皆さんの言葉から思考が進んだことや心にひっかかってること、モヤモヤしてることをランダムに記録…。

 

・この絵本は白黒だけじゃない。グレーやかすんだ色もある。

→そうだよなぁ。自分はグレーかなぁ。でもきっかけ一つで白になったり黒になったりする。なんだろうこの感じ。白黒つけたくなるのはどんな時?

 

・一番最初のページと最後のページが繋がっている。繰り返しの物語、悪意の増殖。

 →あーだから、読後「救いがない」って感じたのか!

 

・戦争は人がつくるもの

 →戦争を繰り返す人間って何?私って何?

 

・苦手なものと共存ってできる?

→多様性を大切にしたいと思うけれど、苦手なものは苦手…

 →ヘビ、ムシ、ムカデ、クモ、ゴキブリ・・・超苦手な人とちょっと苦手な人、苦手なムシとそうでないムシがいる人、蛇もムシも大好きな人それぞれの視点が興味深い。

 →ヘビやゴキブリが好き!という方がいらっしゃることが、すでに私の「当たり前」を崩した(こういう感覚面白くて好き)

 

・ゴキブリを掃討する作戦を立てている時の自分、その時、ゴキブリにとって自分は何なのか。

→「ゴキブリにとっての自分」って考えたことなかった…。

 ゴキブリ駆除だけでなく、「掃討作戦」って日常生活でよく立ててるよなぁ。それって、なんだろう。その時の自分はどんな顔をしてるんだろう。

 

・この絵本は「典型的な戦争」を描いているけど、現代の戦争はもっと形を変えている。

 →私は戦争の本質が描かれていると感じた。でもきっと形は時代とともに変わっている。現在の戦争の姿ってなんだろう。そしてそれにどう抗していけば良いのだろう。

 

・戦時下の支配者は、栄光の夢に繋がる物語しか残さない。でもその物語も虚像でしかない。

 →そう!でもその虚構を、時に熱狂的に群衆が支持するのはなぜ?

 

・大人よりこどもの方が周りをよくみて公平な判断をしていることがある。大人になると人のことより自分のことしか見えなくなることがある。

 →大人になると守りたいものが増えるから?公平でいられなくなるのか?

  正しくありたいという思いが、白か黒でいたい、いなくては、という思いに繋がっていくのか?

 

・戦争は悪。でも、「悪い人」が一人が起こすものではない…

 →でも、戦争「責任」はある。責任ってなんだろう。

 

・対等な対話のはずが、対等で無くなるとき、そこにある「権力」ってなんだろう。

 

 

心の洗濯日

無地のノートに自分のトリセツを書いている。

 

<疲れ切って何もできないとき>

 

<少し気力が出てきたとき>

 

<まぁ元気なとき>

 

することを書いておく。

 

何もできないときはノートを開くのも億劫なんだけど、

まぁ元気な時に眺めておくと、

「あぁ、今日ダメな感じ」って日にすることがわかる。

心に水やりしたい時に何をすればいいか浮かんでくる

 

疲れて何もしたくなくて、

でも心の中は嵐のようにザワザワしていて、

苦しい!って思った時、

どんどんどんどん心に泥がたまっていって、

重い!って思った時、

 

昔は

自分の中の嵐に自分が取り込まれてもがいたり、

自分の心の中の泥に自分が押しつぶされて動けなくなっていた。

 

今もそんなふうになりそうな時はあるけれど、

少しずつ、そんな時、自分でどうすればいいかわかってきたようにも思う。

 

嵐をよけて屋根を探したり、

泥が流れていくのをじっと待つことが、

昔よりできるようになったように思う。

 

嵐が去って、泥が流れたら、

心の洗濯。

 

安心できる人とだけ話して、

好きなラジオを聴いて、

好きな音楽を聴く。

美味しい珈琲を飲む。

チョコレートケーキを焼く。

英語の勉強をする。

繰り返し聞いてる漫才の同じところで笑う

 

優しい言葉に触れる。

心に少しずつ水をかける

 

好きなひと、ラジオ、音楽、珈琲、ホームベーカリー、英語、漫才、ハンドメイドの服、詩…

大切な私のじょうびやく

 

今、読んでいるのは、『えーえんとくちから』(笹井宏之:著、ちくま文庫)。

NHKのTV番組「理想的本箱」で紹介されていて、惹かれて、読んでみた。

(「理想的本箱」、とても良い番組です)

 

ずっと、夜寝る前だけじゃなく、一日のうち何度も頁を開いて読んでいる。

黙読したり、音読したり。

 

小さな嵐や心に砂がかかった時も、

この歌集を読むとほっとする。

心が洗われる。

読むたびに出会いがある。

生きていることの透明な美しさを抱きしめる夜。

I AM LEARNING!

とても遅くなったけれど、3月のフラワー読書会(主催:スロウな本屋さん、進行役:松川えりさん)を思い出して記録しておこう。

本は『WE ARE LEARNING #こわがなくていい世界へ』(Sakumag Collective:制作、佐久間裕美子:発行)。

 

この本は、〈ジェンダーにまつわる4つのStudy〉と〈ジェンダーにまつわるモヤシェア(モヤモヤする気持ちのシェア)の会記録〉、〈ジェンダーにまつわる失敗談〉、〈用語集〉で構成されている。

ジェンダーにまつわる4つのStudy〉は、男性学の研究者(田中俊之さん)、メディアとジェンダーの研究者(田中東子さん)、ノンバイナリーの当事者(まあやんさん)、アスリート(サッカー選手の下山田志帆さん)とインタビュアーの対話だ。

読みながら「そう、そう!」と共感したり、「知らなかった…」「そうなんだ!」と初めて知ったり。この本は、「学んでいきたい」と感じている読者に寄り添い、一緒に世界を拡げ、深めてくれる。

本に鉛筆でたくさん線を引いて付箋にいろんな疑問を書いて貼り付ける。

この作業はまさに本との対話。そして、作業をしながら、対話をしながら、その本が自分だけの本になっていく感覚が嬉しい。

装丁の美しい絵本にはできないことだけれど。

 

思い返すと、20歳の頃(大昔やん!)、古本屋で買ったMフーコーの『性の歴史 知への意志』を古本屋近くのファストフード店に駆け込んで読みながら、疑問を書き込んだ付箋を貼ったのが最初の本との対話だった。その時は、もう、そうしないわけにいかなくて、その場で書き込んで貼って貼って。自分が読書しながら生まれ変わるような感じだった。

 

時々そんな、付箋を貼らずにはいられない本に出会う。

この本もそんな本の一つ。

 

この本の表紙の〈#こわがらなくていい世界へ〉というハッシュタグを見て、「私は何がこわいだろう」「私は誰をこわがらせているだろう」って思った。

暗い人通りのない夜道を一人で歩くのは怖い。一人でいる時に男性のガス検診業者を家に入れるのは怖い。美醜や年齢でジャッジされるのは怖い。

LGBTQについて無知であるゆえに当事者を傷つけているかもしれない。こどもの行動をジャッジして怖がらせているかもしれない。

 

こわがらなくていい世界に向かうためにできることはなんだろう。

 

こわさから逃れて閉じるのではなく、どうしたら自由になれる?

 

そのKeyは“learning”、学び続けることだ。

きっとそれは確かなことだって、この本を読みながら思った。

 

“We are learning”

知らないことを恥じて思考停止して終えるのではなく、少しずつ知って、想像力を拡げていきたい。

私は学んでいるのだから。

 

“I am learning”

私は学んでいるところです。

そして想像力を拡げているところです。

そして、いつも、

“「自分の想像力が及んでいないことがある」という感覚(p.40)”を忘れずにいたい。

 

スロウな本屋さんのフラワー読書会は「自分の想像力が及んでいないことがある」ということを気付くことができる大切な場だ。そして、自分のモヤモヤと誰かのモヤモヤが重なって輪郭を持つ場でもある。この本の中の「モヤシェア会」のような場でもあり、そこに哲学者の松川さんのナビゲートと参加者の方の熱量が加わると、シェアに留まらず、モヤモヤの核を目指して深めることもできる。

 

正解はわからない。

でも「こわがらなくていい世界へ」私たちは目指していくことはできる。

モヤモヤしながら、立ち止まりながら、

 

WE ARE LEARNING

 

I AM LEARNING

What do you mean “What a Wonderful World”?

とても久しぶりの更新です。

心が動いたことがたくさんあったので、少しずつ記録しておこうと思う。

忘れないうちに。

 

長く文章を書いていないと、書き方を忘れてしまう。

それだけじゃなく、

心の深いところが動いた時はうまく言葉にできない。

言葉にすることで〈本当のこと〉がすり抜けていくようで怖くて。

でもできるだけ言葉にしていこう。

(…と決意表明してみる!)

 

まずは、

今月参加したスロウな本屋さんのフラワー読書会『10代のうちに考えておきたいジェンダーの話』(堀内かおる著、岩波書店)。

ファシリテーターは松川えりさん。

 

この本、10代のうちにぜひ読んでほしい。

(もちろん、どんな年代にも響く本です)

ジェンダーの入門書でもあり、現在進行形の様々な事象について述べられています。

 

ジェンダーってなんだ?」という基本的な知識、〈性〉の多様性、ジェンダー規範、こども服や小物の色、おもちゃの種類、ジェンダーを映し出す物語や絵本、学校の中でジェンダー化が進められること(ランドセルの色、名簿、呼び方、教科を教える教員の性別、部活、マネージャー、校則、制服…)、大人になっていく過程で出会うジェンダー、ライフキャリア…。

 

この本を読むと人が社会的な存在であるということがよくわかる。

そして、ジェンダーを考えることは自分と向き合い、主体的な人生を歩む上で大切なことだとあらためて思う。

 

読書会はとても豊かな時間でした。

 

今まで生きてきて、〈自分が変容する時〉が何度かあったけれど、

この読書会で、参加された方の発言を聞きながら気づいたら涙が流れていてビックリした。

驚きと「あぁ、そういうことなんだ!」という発見。

 

〈無価値感〉の話の時。

「生きている人全てに価値がある、価値の上下はないと思っているのに、自分の中の〈無価値感〉がなくならない」

「目標を達成してもしなくても、その人の本質的な価値は変わらないと頭ではわかっているのに、自分自身については目標を達成できなければ価値がないと思っている」

「私はいつも自分の中の〈無価値感〉とたたかってきたように思う」

私は今抱えている率直な思いを話した。

 

この〈無価値感〉はどこから来るのだろう。生育環境の中でジェンダーを内面化してきたことも影響しているだろうし、受けてきた管理教育の影響もあるだろう。合理性や効率性を優先する社会の影響もあるかもしれない。

でも、影響を受けながらも、私は私自身で人生の岐路で道を選択してきた。そのことに誇りを持ってもよいはずだ。

でもこのなくならない〈無価値感〉はなんだろう。

 

〈無価値感〉の話の時、

一人の方が「私は自分に価値がないと思ったことはない」「自分には価値があると思っている」と発言されて、心の底から、驚いた。

どんな人も多かれ少なかれ〈無価値感〉とたたかったり、折り合いをつけていると思っていたから。

 

その方は、読書会のはじめに「自分は男の子が好むとされるおもちゃや戦隊ものが好きだったけれど、親から止められたことはない」と話されていて、「そ、そんな親御さんもいらっしゃるのか!」と心底驚いた。

その方のお母さまの言葉が忘れられない。

 

「自分がいなかったら世界なんてない」

 

“自分なんかいなくなっても世界は続いていく”“自分がいなくなっても世界は変わらない”のではなくて、

「自分がいなかったら世界なんてない」って、なんて力強い言葉だろう。

 

「あなたがいるから世界がある」って、なんて力強いメッセージだろう。

 

お母さまからの素晴らしいギフトをもらっていらっしゃるなぁ。

そんなメッセージとともに育まれるってとても幸せなことだ。

 

(こうして振り返って書きながら、サルトルの『実存主義ヒューマニズムである』を読んだ後に受けたメッセージ“人間はみずからの価値を自分で決めていくことができる”がリンクした。

エレカシの〈回ってる世界の今はここが真ん中だぜ!〉も。)

 

私は弱い。

だけれども、息子にそんな言葉を贈りたいよ。

そして、息子にいつも自分には価値があるって思ってほしい。

挑戦して失敗もするだろう、挫折だってするだろう。

どんな時も自分には「価値がある」って思ってほしい。

 

私は、私が抱える〈無価値感〉とのたたかいの日々を無意味だとか無駄だとか言いたくはないけれど、

冷静に考えて、

〈無価値感〉に苦しんだり、たたかったりする時間とエネルギーをもっと他のことに使えたら良かったと正直思うし、

これからそうしていきたいと思う。

 

誰かと比較して自分を保つのではなく、自分は価値があると思って、自分の好きなことにエネルギーを向けられたら、しあわせだと思うから。

 

読書会では皆さんとの対話や本の内容の再発見を通して心に残った言葉や問いがたくさんあった。

 

・何かを手放すから何かが入ってくる

・“わからない”という前提に立って聴く

・理解はできないけれど尊重する

・わたしたちが、そうじゃないところにいる人(当たり前とされるところにいない人)に根拠を求めるのはなぜ?

・社会のジェンダー秩序に沿った生き方をする方が葛藤がなくて幸せだ、との思い込み→自分を偽ることは自分をジワジワと苦しめる

・必要か不要かを判断するのは誰か?

 

この読書会で出会えた言葉、そして問いを、大切にしよう。

 

読書会直後どうしても読みたくなって、大島弓子さんの『バナナブレッドのプディング』を本棚から引っ張り出した。

そして、ルイ・アームストロングの「What a Wonderful World」を聴いた。

 

“おかあさん

ゆうべ

夢を見ました

 

まだ生まれてもいない

赤ちゃんが

わたしにいうのです

 

男に生まれたほうが

生きやすいか

女に生まれたほうが

生きやすいかと

 

わたしはどっちも同じように

生きやすいということはないと

答えると

 

おなかにいるだけでも

こんなに孤独なのに

生まれてからは

どうなるんでしょう

生まれるのがこわい

これ以上

ひとりぼっちはいやだ

というのです

 

わたしはいいました

「まあ生まれてきてごらんなさい」と

「最高に素晴らしいことが待ってるから」と

 

朝おきて

考えてみました

いったい

わたしが答えた

「最高の素晴らしさ」って

なんなのだろう

わたし自身もまだ

お目にはかかっていないのに

 

ほんとうに

なんなのでしょう

わたしは

自信たっぷりに

子どもに答えて

いたんです”

 

 大島弓子『バナナブレッドのプディング』より

 

 

 

What do you mean “What a Wonderful World”?

世界は色であふれてる!

森絵都さんの『カラフル』(文春文庫)を読んだ。

ふわぁー…!心地良い読後感…!

最近黒く腐りかけてたわたしの世界に、カラフルな光が射しこんだよ。

 

(以下ネタバレを含む感じたことです)

 

 

この本に流れる空気、だいすきな大島弓子さんの作品世界に重なって、心地いい。

真もプラプラも小林家の人々も、唱子もひろかも早乙女君も先生も、私の脳内では大島先生風のキャラクターになって動いてた。

(あーっ!今無性に『バナナブレッドのプディング』が読みたくなってきたーっ!読も。)

 

最後は「やっぱりそうかぁ!」「あー、良かった」ってなんだかホッとした。

 

森絵都さんの『みかづき』がとても良くて、この本も読んでみたいなと、『カラフル』の表紙に惹かれて手に取った。

ひとつひとつの言葉がとても心に沁みる。

(息子が床屋で散髪している間に読んでいたんだけど、思わず涙ぐんでしまって困った)

 

そして、文章のリズムが読んでいる私の鼓動とシンクロしてくる感じが心地いい。

 

“ぼくのなかにあった小林家のイメージが少しずつ色合いを変えていく。

それは、黒だと思っていたものが白だった、なんて単純なことではなく、たった一色だと思っていたものがよく見るとじつにいろんな色を秘めていた、という感じに近いかもしれない。

黒もあれば白もある。

赤も青も黄色もある。

明るい色も暗い色も。

きれいな色もみにくい色も。

角度次第ではどんな色だって見えてくる。(p.178)”

 

“「みんなそうだよ。いろんな絵の具を持ってるんだ、きれいな色も、汚い色も」

(略)

人は自分でも気づかないところで、だれかを救ったり苦しめたりしている。

この世があまりにもカラフルだから、ぼくらはいつも迷ってる。

どれがほんとの色だかわからなくて。

どれが自分の色だかわからなくて。(p.186)”

 

“この大変な世界では、きっとだれもが同等に、傷ものなんだ。(p.228)”

 

“そう、ぼくはあの世界にいなければならない…。

(略)

ときには目のくらむほどのカラフルなあの世界。

あの極彩色の渦にもどろう。

あそこでみんなといっしょに色まみれになって生きていこう。

たとえそれがなんのためだかわからなくてもー。(p.246)”

 

 

私が真や唱子やひろかの年、14、5歳くらいは、眩しく射しこむ色が整理できなくて、2色に分けてなんとか呼吸していた時もあった。

「私は○○色です」って表現したり説明しないとここにいてはいけないような気持ちになったこともあった。

そして、この混沌とした色が混ざり合った世界が、10年、20年…経てば、きれいに色分けされて、呼吸しやすくなるし歩きやすくなるはずだって思ってた。

大人はみんな器用にスイスイ生きてるように見えたから。

 

ものすごい勢いで時が過ぎて、

やっぱり混沌の海の中で溺れそうになる時もある。

逆に、自分の中に絵の具が全然無いように思えて焦燥感に押しつぶされそうになる時もある。

全くきれいに色分けされてなんかいないんだ。

 

真のお母さんが自分のことを「欲深い」「執念深い」と表現していたけれど、すごく共感した。

 

これからだって、オバーチャンになっても、

思わぬ色に戸惑ったり、混乱することがあるだろう。

今はこの色で行くって強く筆を走らせる時もあるだろう。

いろんな色を混ぜ合わせながら、フワフワと漂うこともあるだろう。

 

ひとつわかっていることは、

たとえ美しくなくても、汚れていても、

カラフルな世界を生きていくってことだ。

 

そして、それは、なかなかすてきなことだと思う。